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「やればできる」と軽々しく言う大人達

世間一般に「やればできる」は、勇気付けの言葉として肯定的だ。
ところが、励ましたい気持ちが強い人には水を差すような私見ながら、二つのポイントを理解していないと、危険な言葉になりかねないと感じている。

■ポイント1(やる前)

「やればできる…You can do it !」…確かにそうかもしれない。

この言葉を冷静に解釈すると、「やり続ける」からこそ「できる可能性」は高まるということになる。
もっと踏み込んで紐解くと、「できる保証」は誰にもしてもらえないけど、「できるまでやり続けていたら良いんだよ」ということになる。

そこで、まず…

「やればできる」と励まされる人の「状況」を以下三つで整理したい。

結論を先に言うと、以下の状況の3における「本人が好きな事・やりたいこと」である場合が、最も効力が高い励ましとなるということだ。

  1. やりたいことでも無いのにできるようになりなさいという他律的コミットメント

  2. やりたくはないができるようにならないといけないという自主的コミットメント

  3. やりたいことだからやり遂げたいという主体的コミットメント


1.他律的コミットメントでの状況下

この状況での「やればできる」は、とても酷な話となる。

やりたいとは思っていないのに、できるまでやり続けるなんて、苦痛を虐げられているのと変わらず、やっていることも嫌いになる可能性は高い。
それで成し遂げたとしても、またぜひ次も本人から主体的にやりたいと思う人は、かなり少ない。

一家相伝の特殊な家系でも、幼少期に興味関心を惹かせる努力をしている話も聞くが、他律的な状況下での「やればできる」は、一般的には無責任な言葉になりかねない。


2.自主的コミットメントでの状況下

この状況では、「苦手克服」的なニュアンスの場面も多い。

ただし、ここで大切になってくるのは、明らかに「やるべきこと」があったとしても、それを克服することによって、本人がどういう未来を築きたい事につながるのかを確認し合うことだ。

「やるべきこと」を自主的に率先してやろうとする姿勢や良いが、その姿勢だけを褒めるのでは大切なことが抜けてしまっている。
そのため、仮に克服したところで、また次の課題に能動的に取り組もうということの連鎖性は生まれにくい。

結局は、「未来に向けて自分は何がやりたいのか」を相互の確認・対話すること…これに事欠いてしまうと、頑張ることが目的となり、大袈裟な表現をすると「燃え尽き症候群」を引き起こしかねない。


3.主体的コミットメントでの状況下

3の状況は、それによって自分が未来に実現したい事・本気でやりたいことの「目的」や「ビジョン」が、声掛けする人も本人も明確に理解している。
つまり、苦手克服することが目的ではないということ…あくまでも通過点の目標の一つに過ぎないということだ。

そうすると、道半ばにおいては、なかなか上手くいかないもどかしさがあったとしても、本気でやりたいことだから「やり続ける」という環境が、自然に生まれやすい。
そもそも、やっているものが「本気で好きなこと」であれば、気づきや工夫も生まれやすく、成果としてのクオリティも高まりやすい。

また、別の苦手克服課題が出てきたとしても、本人が目指したいビジョンに向けての事だから果敢に挑むようになるし、むしろ苦手だったことも得意になる場合もある。


「何が好きなのか」
「何がしたいのか」

声掛けする側が、お子さんや生徒さんの一人ひとりのコレを理解をしていることが、「やればできる」と投げかける前提条件の一つと考える。

文末にもリンクさせているが、「自主性と主体性の違い」についても、以前コラム化している。


■ポイント2(できた後)


一つ目のポイントは、主体的コミットメント…つまり「本人が好きな事」や「本人がやりたい事」という状況であるならば「やればできる」という言葉が過剰なプレッシャーになりにくいということだった。

もう一つのポイントは、「できた後」のことだ。


1.大人のためにやっているのではない

「やればできるじゃないか!」「ほら!できたね!!」っていうこの言葉…ご褒美のような感覚でこの言葉を重ねることは、ぜひ避けたい。

もちろん、それまでの本人の努力も認めてあげたい・応援してあげたい気持ちも解る。
しかし、「やればできる!」を言い過ぎると「大人が子供に求める及第点がゴール」という錯覚をさせてしまうリスクが高くなる。

本人は、大人や指導者が「満足」するために努力しているのではない。
目指したいビジョンに向けて、本人が「納得」できるまで掘り下げたいのが本望であることを忘れてはいけないということだ。

途中のプロセスにおいて、大人や指導者が求める及第点レベル以下であったとしても…子供にしてみれば「やろうとしていた」こと自体も否定される気になる時期だってある。

及第点の半分程度であっても、全くできなかったゼロ段階からは、改善されていることもあるし、そもそも、まず「やろうとした」という事実がある。

子供が自分でやりたいことを見出して、苦手な部分の克服にも「やろうとしている」のなら、ボクらは、大人はその後の結果や状態をアレコレ評価する必要がないんじゃないかという仮説を立てている。


2.次はどうしたい?と聞いてあげるだけ

まずは「やろうとした」時点をしっかり認めて、その結果として、本人も「うん!できた!」となったら、どうするか…

「できたのはステキなこと!…それで?次はどうしてみたいな~とかいうのってあるの?」と、次への歩みを優しく見守る程度で良かったりするんじゃないかという仮説だ。

自分から「やればできるんだ」という自分に信頼していくことを「自信」というのなら、本人はもっとその先をやりたい気になっていることもある。

そこに身近な大人のほうが「やればできるだろ?」という得意げな満足顔で接してしまうと、場合によっては威圧的に思ってきた子供にしてみれば、この人を満足させるところまでは頑張ろうという気にもなってしまう。

先述のとおり、それは本質とは大きくズレることになる。
自分の未来を信じ続ける姿勢でその後も歩むなら解るが、大人になっても、自分の納得よりも、人の満足と目線を気にして、自分の成果を褒めて欲しい潜在意識に…それは、大人の世界でもあったりしないだろうか?

「ここまでできたんだね?…さあ、次はどうしてみたい?そのためにはどうしようと思っているの?」と、笑顔で次へのトランジション(切り替え)の背中を押してあげるだけで良いし…「次はこうしたいんだ!」と言ってきたら「やったらイイじゃないか!」で済む話だ。

その時、子供(会社でいうと部下)は、決して親や指導者(上司)の顔色を窺うことなく、自分の経験と自信と感性を活かして、歩み続ける。
つまり、できた後は、「次は何をしたい?…それ、やってみるとイイね♪」くらいの声掛けで留めたい。

先日もコラム化したとおり、いい意味で「調子に乗らせる」具合でイイと思うんだよね。


■結局は…我々大人の日々の姿勢

まとめに入ろう。

「やればできる」というのは、周りが言うことではなく、本人が気づく言葉なんじゃないかということなのかもしれない。
つまり、本人が「やればできる」ことに気づいてもらうための環境づくりこそが大切ということになる。

そのためにも、周りの大人(指導者・上司)は、日頃「本人が好きな事」「本人がやりたい事」について、しっかりと対話を重ねておきたい。

課題克服をした際も、「次はどうしたいの?…次にやりたい事があるなら、また思い切ってやるとイイね♪」…それくらいの背中の押し方で充分なんじゃないかな。

そして、もっと大切なことがある。

ミニバスケを使って子供達の主体性が育まれる土壌づくりのワークショップをしている躍心JAPANの団員の合言葉のとおり「子供達の意識を変えたければまずは我々大人から」ということだ。

日々の暮らし、自分のなりわい、職場で「自分は本気で何がしたいのか」を明確にして、それに向けて実践していることを背中で語るだけで良かったりするんだよね。

満足してくれた上司に褒めてもらうものではなく、自分が納得いくまで挑む姿勢により、顧客から「価値」として認めてもらう部分を見出せるかどうかが、「経済」の根幹だからね。

「とにかく、やらないと始まらない…Just do it !」…確かにそうだ。
その前に、「自分が本当に好きな事」「自分が本当にやりたい事」…それを言語化できる大人は、一体どれくらいいるんだろう?

そうしたことに胸を張って向き合っていないのであれば…
「やればしんどいやろ」としか言えない。
「働くとは…辛いことを我慢してお金を得ることだ」という誤解を、子供達に押し付ける人ほど「やればできる」を諸刃の剣かの如く、振りかざす。

まずは我々大人から「自分が本当にやりたいことは何なのか」も明確にしめして、本当にやりたいことだから続けられることで、「やればできる」姿勢を背中で語ることなんだろう。

Backstage,Inc.
事業文化デザイナー
躍心JAPAN団長
河合 義徳

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