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親子で見出した「働く者のあり方」

経済活動のあるべき姿

社会的に弱い立場の人々に、人より劣る・人と違うことに孤独感と焦燥感を植え付けておきながら、その救世主かのように存在し、個人を社会の一員に取り込むのが、資本主義独特の「包摂(ほうせつ)」なんだろう。

「包摂」は、ある一定の概念こそが「世の常識」だと誘導して、そこに多くの個人を取り込んでいくことと解釈しているが…
取り込まれる個人は、いずれ独自の感性と知性を失い、結局はいわゆる末端の庶民への負担と疲弊に寄せられて、特定の人にいろんなものを搾取されていく構造は、「胴元ビジネス」そのものじゃないか。

それが資本主義だというのなら、これは本来の「経済」とは言わない。

「世をおさめ、民を苦しみから救う」という「経世済民」ではないからだ。
社員が幸せになれない会社が、顧客から長年の信用と信頼を築く価値づくりができるはずもないことにも通じる。

一方で、「生産者」と「消費者」…どちらの立ち位置であっても、常に変わらず「自分を活かして生きる者」こそが、『生活者』だと考えている。
つまり、「民」は、『主体的に自分の感性を活かし生きる者』でなければならないということだ。

そのためにも、自分以外の民を救うための価値を産み出す「生産者」である一方、自分では実現しえない価値を、他の民に与えてもらうことをありがたく感じる「消費者」でありたい。

そこで大切なのは、消費者と生産者の間には、常に「主体的な生活者」が存在していることであり、「包摂」を生み出してしまう「資本家」を、経済の中心に居座らせている場合ではない。

多種多様な「生活者」が存在していることが、「経世済民」としての「ありがとうの循環経済」という社会形成の基盤となるはずだが…
今は残念なほど「人と違うこと」が排除されがちな社会環境と言える。

なぜなら、「生産者」と「消費者」の中心には、「自分を活かして生きる生活者」ではなく、「人を生産効率のリソースに据えた資本家」が中心にいるからだ。
その結果、どうしても常に「売れ筋」を手繰り寄せ、働き手には個性よりも生産効率を求め、消費者には均一化された筋書通りの購買意欲を煽ることが常に繰り返されていく。


経済は教育現場に影響する

システム経済主導の構造主義が主流の現代社会では、人と違うことは「認める」ことはするが、人と違うことを「求める」ことはしないため、自分を活かして生きることよりも、職場でも学校でも、ルールや規約や同調圧力に従順であることが求められる。
 
したがって、子供のうちから、お互いの個性を高め合う「対話」の機会は奪われ、早々と多数決という「敗者が勝者に従わせる縮図」に身を置かせて、人が本来持っている突き抜けた感性や、自分で意味を見出す主体性をも奪っていく傾向が強い。

そうなると、教育現場では、「集団行動の統治力こそが、自分の教育スキルの高さ」と勘違いする指導者まで出てくる。

子供でも大人でも、学校や職場以外の休日で、自分の風景を切り取ることを「リフレッシュ」と表現すれど、日々の暮らし・働き・学びにおいて、個々の感性が活かせていないのなら、人生の大半を生け贄(いけにえ)として捧げているのと大差はない。

売れ筋開発や話題作りを起爆剤として、効率化や標準化を煽る資本家的発想には、心豊かさを感じる価値づくりの本質を見出すことは、ボクらは全くできない。

職場では、主体性や独自の感性はほとんど求められることもなく…暮らしでは、均質的プロダクトに自分を合わていくのが社会の常識という洗脳の未来は、明らかに「経世済民」ではないからだ。

そうした中で、巷では「ダイバーシティ(多様性)」だの「サスティナブル(持続可能)な働き方改革」だの…もっともらしい言葉が羅列されるようになっていることは、滑稽に感じてしまう。

資本主義独特の「包摂」によって、人より同等以上のものにこだわる「相対的価値」を求めたところで、目に見える資産形成への「欲」が高まる一方、自分らしさは見失うのが関の山。

逆に、人目を気にすることなく、納得できる「絶対的価値」を創るプロセスを丁寧にしていると、明日の自分にまた期待したくなる自分らしさを見出せるようにもなる。
(これは、いわゆる「無形資産家」の特徴なんだろうな。)


何をイノベーションすべきか

要は、経済のあり方は、民から変えられるということだ。
 
これからのイノベーションは「嘘のない自分を活かして納得できる生き方をする人同士が『ありがとうの循環』を築いて、自ら本質的な価値をつくること」を本質的なものにしたい。

資本家ではなく、自分を活かして生きる生活者が経済の中心に立ちたい。
つまり、イノベーションは「技術革新」ばかりに気を取られるのではなく、「自分核心」のイノベーションから先に取り掛かると良いんじゃないかな。

技術革新は、結果的に資本家に都合よい生産効率を高めるだけのファクターとせぬためにも、主体的に自分を活かして生きる「自分核心」のイノベーターが増えれば、自分達の心豊かさにもつながるテクノロジーには成りえる。

ボクは少なくとも、見知らぬ土地に自分の身を置き、ヒエラルキーの社会でもがきながらも、本質的に自分が大切にしている「顔が見える関係性」から独自の巡り合せを切り拓き、「自分の核心」を見据えて新たな道を歩み始めた若い女性を知っている。
自分の娘のことだ。

イノベーションの本質は…

  • 得体の知れないもの

  • 物議を醸しだすもの

  • 必ず実現するもの

ということを、尊敬する方から学んだことがあるが…

資本主義の「包摂」によって、世の常識が人為的かつ恣意的に造られている中では、彼女の生きざまは、まさに得体もしれず、前の職場では物議も醸し出しているだろう。
それでも、退職後はすぐに別の歩み方をしており、「嘘のない自分らしさを活かして生きる」ということを実現し始めている。


「やるべきことをやってから、やりたいことをやるのではなく、やりたいことを率先してやる中で、やるべきことは見えてくるし、不思議と…やるべきことも率先してやるようになっている。」

「最初の就職先では、三年は耐え抜こうとしたが、あと一年いたら、自分の感性を完全に失い、社会人ではなく会社人になってしまうところだった。」

「安定した収入・充実の福利厚生と引き換えに、自分らしさに蓋をして歩む…そういう環境から脱却して、意識を自由にして生きて、嘘のない自分も活きる『主体的な生活者』へシフトしてから、毎日ワクワクしながら出勤している。」

「人と比べる・人と競う・人を評価する…そんな世界からは脱出する。自分を活かす・人の良い点を認める・人に喜んで頂くことがあたりまえの場に自分の身を置く。社会に自分を合わせるのではなく、自分に合う社会を築いてみる。」

55歳親父と25歳娘が対話で見出したことは、要約するとそんなところだ。

ボクらは、歪んだ競争原理、自分らしさに蓋をしてしまうヒエラルキー社会に抗うことはせず、会社に喜ばれるより社会に喜ばれる価値づくりの場に身を置くことで、未来の自分達に期待してみたくなる生き方を選んでいる。

だから、ボクは娘のことは心配はしていない。
全く心配していないというのは嘘になるが、「信頼」のほうが心配を遥かに上回っている。

なお、ボクらは、サラリーマンという勤務体系を否定しているのではない。

「資本力」は底支えと循環の中にあるべきで、経済の中心に据えるべきは「人間力」でありたいと願うだけなのだ。

実際、そういう勤務体系ができる会社が存在していることも知っているし、サラリーマンでも、職場でも家庭でも、嘘のない自分を活かして生きている人は何人も知っている。(残念ながら、どちらもかなり少数派だが…)

資本主義が生み出す「包摂」は、働きのあり方どころか、生きざまそのものまでをも惑わせることになっている点を憂いているだけだ。

そして昨日は「店頭に来ていただけるお客さんとの触れ合いが、仕事を続けていく上での最大の歓びなんや!」という老舗魚屋の大将との対話で、ボクらが核心に据えるべきものは何かを、あらためて確認できた日でもあった。

「ありがとうの循環経済」の中心には、資本家ではなく「生活者」がいる。

価値を産み出す生産者でも、価値を使う消費者でも、主体的に自分の感性を活かして、実体をつくりながら社会とつながって生きる「生活者」が、経済の中心にいないといけない。

ボクらは、自分に嘘をついてまで、社会とのつながりの歩みをしたくない。
ロックなんでね。

Backstage,Inc.
事業文化デザイナー
河合 義徳

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