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仏教思考はロックだった!

紆余曲折しながらも自分を活かして生きる道を切り拓いていたら、いつの間にやら、自身の実践の積み重ねでは「仏教思考」に近いものになっていたことに気づかされた。

これまで、何一つ仏教を学んだことがないのに「自分が生まれてきた目的は何か」を追求していくと、自然とそうなったのかもしれない。

『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考~A Buddha’s Ideas』松波龍源著/株式会社イースト・プレス発行
ライティングをされた合楽 仁美さんに、このご本を紹介いただき、あらゆる思考がある中で、自分の指向性は「仏教思考」に至極近いものだったのだ。


お釈迦様は宗教を否定していた!

先日、神戸で合楽さんが運営された出版記念トークライブでは、この本の著者「実験寺院 寳幢寺(ほうどうじ)」の僧院長の松波龍源さんのありがたいお話を拝聴できた。

龍源さんのお話では、冒頭から衝撃が走った。
ボクの解釈による要約はこんな感じ。

仏教の哲学は、物事を科学的に考えて実行できるチカラを得ることが目的であり、宗教ではない。
「空」「こころ」「ゆたかさ」「幸せ」「生命」「存在」の意味を自ら考え続け、思考停止することなく行動するチカラを得ることだ。
神仏を崇めて何かに従うことではなく、主体的に生きていく中で悟りを開き、自分の思想と行動には自ら責任を持つことである。
お釈迦様も、宗教的なことは否定されており「A Buddha’s Ideas」を提示して、我々に問うておられるだけである。

河合なりの龍源さんのお言葉の要約

これ、めちゃくちゃロックやん♪
何かを奉り崇めていく宗教ではないんや!

アナキズムに近いかどうかの議論はさておき、めちゃくちゃ「脱ヒエラルキー」じゃないか!…ここに心地よいロック魂を感じる。

昨年インディーズレーベルから出版した『未来に期待したくなるジブンスイッチ』の著書の「まえがき」でも述べているが「人の目を気にしたり誰かに迎合したりすることもなく、嘘のない自分を生き抜こうとしている人」を、ボクは「ロックな人」と短い言葉で称えている。
実際、自分自身がそうありたいと思っているからでもある。

とにかく、龍源さんのお言葉からのボクの身勝手な超解釈では「神がこの世をお救いになるのではない」ということだ。

生きている我々が、個々の暮らし・働き・子育てにおいて、自分に責任を持ちながら思考を巡らせて、自分にできることの実践を積み重ねる…要は、一人ひとりの生活者がこの世を形成していくってことじゃないか?

もちろん、龍源さんもボク自身も、多くの宗教や神を愚弄するものではなく、あくまでも「思考」の捉え方である。
この「思考」が、ボク自身の過去の歩みとこれからの歩みの体系的な整えにピッタリだった。

松波龍源さんにサインいただきありがたい


ボクらがマイノリティな要因

日頃の事業活動による実践や、ボク自身の生き方そのものがマイノリティであることと同じように、龍源さんが唱える宗教ではない「仏教思考」が世間でなかなか一般化しない理由も、この本でも体系的に示されているような気もする。

ご本にも書かれているが、この日のトークライブでも示してくださった。
現代社会の世界観が、概ね以下の三つで構成されていることだ。

  • 唯物論…全て数値化できる定量評価だけで社会が設計されていること

  • スコラ哲学…究極の善きものへと導かれ進化し続けなければならない考え

  • 弁証法…絶対的勝者が決まるまで闘争する二項対立が前提となること

ボクのこれまでの生き方や価値づくりにおいて、この3つについて全て真逆の方向で動いてきたため、それならば、やはり現代社会ではマイノリティになるよなと腑に落ちる。

実際、ボク自身のなりわいは、一番目にある「唯物論」とは逆説…言うなれば「唯心論」がベースにあるように確信しており、龍源さんのお話を聴きながら、頷きすぎてムチ打ちになるかと思ったくらいだ。

つまり、カタチのないもの…数値では表せない人の「心」があらゆる価値づくりの土台となっているということを、全ての事案で唱えているからだ。

しかも、この概念を裏付けるかのように、会計で示す「貸借対照表」でも、あらゆる事業者において「無形資産」が価値づくりの土台であることを象徴するかのごとく、図式でも一番下の勘定科目となっている。

社会に出て金融業界に身を置いたことで、あらゆる事業者において未来への期待値はどこに見出すのかを自分なりに感じたのは、会計の数値では表せない「従業員のモチベーション」「挑み続ける技術力」「理念に近づこうとする組織文化」のところだった。

金融業界では「有形資産」は融資の担保にはなるが「無形資産」の数値評価は、ゼロに近い。
それならば、金融業界では実現できないことであり、自分にしかできないこととして「組織文化」をデザインする仕事をなりわいにするため、2002年に起業した。

組織の事業文化をデザインする仕事、並びに個人事業主が自分たちの未来に期待したくなるような空気をつくる仕事である。

この目的は、自社が関わる事業者には、価格競争から脱却して出逢いたい顧客に出逢えるようになること、また人を育てるのではなく自然と人が発育されていく土壌づくりにつながることだ。
これがまた、脱「スコラ哲学」であったり、脱「弁証法」に近い概念でもある。


生活者が無責任であることが原因

起業当初より、経営理念には「人間関係の質が高まる土壌をつくり次世代の心豊かな価値創造力向上の礎を築く」としている。
とりわけ、無形資産の最大のチカラは「個の感性」だと考えている。

それだからこそ…

  • 人に媚びない

  • 人と比べない

  • 人と抗わない

その姿勢の中から、一人ひとりの感性と知性に基づいて生まれる主体的な実践力こそが、あらゆる価値づくりの土台となるという考えのもと、自分にできることから始め、自分だからできることに気づき、いずれは自分にしかできないことを見出す。

これは何も、社会人となってからではなく、人間形成における幼児期や青少年にも同じことだと思っている。
知識は誰が答えても同じになるが、知性による答えは人によって違っていて構わないし、そもそもその「知性」というものは「頭」だけではなく「心」が働かないといけないんだ。

「自分にしかできないこと」は、いずれ「自分にできてあたりまえのこと」の境地となるが、自分にはできないが他者にとってはできて「あたりまえ」のこともある。

自分にはできないことを成し遂げてくれると、その他者には「ありがとう」という気持ちが自然と芽生える。

つまりは「経済はありがとうの循環でできている」という、至極あたりまえのことが、現代社会では薄らいでいる。
なぜなら、現代社会の経済の中心には「生活者の心」があるのではない。
今の経済の中心には「資本力・権力・カネ」があるからだ。

むしろこれにより、唯物論・スコラ哲学・弁証法がさらに助長されてしまっているかもしれない。

トークライブの終盤、参加者からの質疑応答時間で、合楽さんがマイクを渡して下さったので、仏教思考における「因果の理(ことわり)」に照らし合わせて、前から自分の中で描いている一つの仮説を龍源さんに投げかけてみた。

「経済はありがとうの循環でできているはずなのに、現代社会の経済の中心には資本力やカネが中心となり、どこか歪んだ豊かさとなっている最大の原因は、経済システムや教育システムや社会環境に責任があるのではなく、そうしたありようを容認してしまっている全ての生活者に責任があるのではないか」という仮説だ。

龍源さんは、とてもロジカルにその考え方を認めてくださり、一言で要約すると「仏教思考では、自分の思想に一人ひとりが責任を持つことだが、残念だが今の現状はそれができていないということになる」ということだった。

  • 少年スポーツでも未だに蔓延る指導者による恐怖政治体制

  • 芸能や一般企業でも未だに蔓延るパワハラや忖度

  • 絶えることなく発覚する大企業の不正会計・不正検査・偽装表示

  • 何のために学ぶのかを教師も理解していないためか学校に馴染めない生徒ばかりだけでなく病んでいく先生も多くなっている教育現場

これは全て、個別の現場や業界の問題ではない。
社会全体で、一人ひとりの生活者が身近なところからあらためることでありながら、社会問題や事件になると大半の人が他人ごとである。

長年ボクが憂いてきたこれらのことは「仏教思考」による「因果の理(ことわり)」によると、そういう事象が起きているのは全国民の責任であるということを龍源さんが示して下さったように思え、大いに勇気づけられた。

生活者一人ひとりの未来と日々の暮らしへの安心と安全が脅かされていることが続いても、その一人ひとりが歪んだ社会に忖度してばかりで何一つ改善していかないのに「仕方ないよね」とやり過ごすこと自体が無責任なのだ。

子育て世代の主婦のご両親もぜひ!


ご縁の意味

合楽さんのおかげで、龍源さんのお心に触れられたこと。
そもそも、合楽さんとのつながりがあったこと。
これは紛れもなくありがたい「ご縁」を感じる。

実は、先に述べた「事業文化をデザインする」という自身のなりわいにおいて、個の主体性を遺憾なく発揮するための環境設定として、大事にしているプロセスがある。
(ちなみに「デザイン」とは、ボクの中では「人の心をくずぐり、未来にワクワクする行動環境を設計すること」という定義付けをしている。)

その環境設定を以下の五文字で表している。

「安・因・運・縁・恩」…「あ・い・う・え・お」の全てに「ん」を足した漢字五文字だ。

  1. 価値づくりに挑む場面では何を話しても許される心理的安全性の担保がないと個の可能性の一歩目が出ないため、まず「安」を確保

  2. 価値づくりに関わる一人ひとりが起点となり、あらゆる事象の原因をつくる人になろうという働きかけの「因」

  3. 道を切り拓くのは独りでは苦しいが、一緒に切り拓く仲間をつくることで苦楽は友となることで切り拓くことができる「運」

  4. 挑んだことによる失敗も次への糧となり、それは挑んだ者しか得られないオリジナルの財産となるため、実践者のみが得られる「縁」

  5. 自分たちの創る価値を認めてくださる方に「恩」を返す気持ちであらためて「安」に戻り「因」を創ろう…人に恩を売るのは奢りしか生まれない

この繰り返しだ。
日々の実践の中から、これについて経営者と「対話」をし続けるのがボクの仕事であり、何一つ「指導」「アドバイス」はない。

ただし、その中心となるものが「有機的となる社内広報」だ。
「ご支持いただくお客様に向けた価値づくりは、なぜ自分たちである必要があるのか」…その問いをずっと続けることこそが、有機的な「社内広報」として体現化させるものもある。

もちろん、その問いの要素としては、未来への意思決定につなげるための「管理会計」も用いるし、発信する際の媒体コンテンツの「デザイン監修」にも携わる。

今回の「仏教思考」においては、先にも出した「因果の理(ことわり)」を明確に示されており、「因」があっても、それに対応する行動をしなければ望む「果」は生まれない。

つまり、ボクらがもっとも重要視しているのは「結果」や「答え」ではなく、プロセスである。
このプロセスを重視して活性化している組織ほど「文化」がある。

「仏教思考」では、「因」を「果」たらしめるのは「縁」とある。

まず原因があり、そこに縁が加わって事象が立ち上がってくるという意味で、これを「因縁生起(いんねんしょうき)」、略して縁起と呼びます。

「ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考」P137より

つまり、ボクらがいろんな事業者と確認し合う「安・因・運・縁・恩」は、「因縁生起」だったんだね。
仏教思考とも、誠に縁深い!(あ~ん♡…なんて見事な身勝手な解釈♪)


自己肯定感を示す必要がない

この本で、もう一つ気づいた点がある。
トークライブによって、龍源さんのお言葉に直接触れる機会を合楽仁美さんにいただいたものの、まだ著書は半分しか読めていない。

それでもこの本には「自己肯定感」という言葉が一切でてきていないし、ライティングされた合楽さんによると「最後まで出てこないの」とのこと。

シュールな着眼点かもしれないが、大阪の片隅で嘘のない自分で生き抜く者としては、いろんな書物やセミナータイトルなどで、何かと「自己肯定感」にフォーカスを当てたがるこの数年の世間の傾向に、違和を感じていた。

仏教では万物の根源、ものごとの本質は「空性(くうしょう)」であること・曼荼羅構造体を全体で見ると「中心がない」こと…この辺りのことから「自己肯定感」という考え方自体が不要なんだろうという仮説が立った。

自己肯定がどうでもいいということでもないかもしれないが…そんなことよりも先述のとおり、経済の中心に資本力やカネが中心となる社会を容認するのではなく、我々生活者の「心」が中心となる「ありがとうの循環経済」にするために、一人ひとりが主体的に生きて、自分の思想と行動に責任を持つことをすれば良いだけじゃないか。

人に媚びる・人と比べる・人目を気にする・人と競い続ける…そんな社会にしているのは、確かに資本家や政治家にも原因はあるかもしれないが、まずは「経済の中心には私たちの心にしよう」という気概感を、次世代に示していかないと、豊かさが歪んで自己肯定感を維持しないといけない同じ轍を、我が子にも踏ませるんですか?って話だよね。

もちろん、こうした自身の振り返りアウトプットは、龍源さんに褒めてもらいたいわけでもないし、自分の自己肯定感を高めるためでもない。
自分なりに咀嚼をすること自体に意味があると感じてのアウトプットだ。


まとめ

龍源さんの深いお話の本と、ボクが著したあたりまえのことしか書いていない本を横並びにするのは、あきらかに身の程知らずなことだ。

しかし、この二冊は共通点がある。
いや、勝手に共通点にしてしまっている。
著者の立場ではなく、読者の立場になると、急に自分に良いように咀嚼するからね。

それで、どこに共通点があるかというと…二つの本は…

「嘘のない自分で生き抜きたい」と思うロックな人にお勧めです。

そもそもボク自身、これまで何一つ仏教を学んだこともないし、ご先祖や血のつながりには感謝はあれど、無宗教だ。

戒名を付ける際、奇数の文字数が多いほうが、あの世でも良い地位につけるという話を聴いたことがあったのは、ボクが中学生の頃だろうか。
その頃から、ヒエラルキーには常に嫌悪感があったためか、当時から空とヒコーキが好きだったという理由だけで、ボクの戒名は「空」の一文字で構わないと言って、周りの大人に相手にもされなかった。

仏教思考における「空(くう)」の概念が、まさか自分にピッタリだったとはね…今頃この偶然にも驚く。

週に何度も空を感じに出向いている

今考えると、ボクは仏教にも大して興味がなかったが、本質的なところでは「仏教思考」にはもっと早く出逢っていれば善かったとも思う。

なぜ無学な自分が「仏教思考」に限りなく近い概念で物事を捉えるようになったのか…それがとても不思議でならない。
その理由を掘り下げてみたい気もするんだけど、まだまだやりたいことに心と体を使っていく時間のほうに使いたい。

そこで今のところ見出した自分なりの理由解釈は「ロックだからだな」というところだろうか…そのために、この記事のタイトルは「仏教思考はロックだった」というものにした。
これに対する批判や嘲笑があったとしても、ボクは気にしない。
人の目を気にして生きてはいないので…。

<参考>
この御本の「はじめに」と目次一覧が読める記事はこちら

そして、おこがましくも同じ匂いがする本がこちら
こちらは紹介ページからのQRコードからのアクセスながら、仏教思考のご本紹介の記事と同様、本の冒頭を試し読みできます~。

松波龍源さんが僧院長の「実験寺院 寳幢寺(ほうどうじ)」のWebサイトはこちら

Backstage,Inc.
事業文化デザイナー
河合 義徳

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