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この国の常識を疑ってみる散文

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物事の捉え方や、言葉の意味を自分なりに掘り下げてみると、自分の思い込みだったことだけでなく、多くのオトナが誤解していたり、歪んだ常識に無関心になっていることに気づく。
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2022年2月の記事一覧

子供達の主体性を育む土壌を奪う大人達

「自主的」に動く大人。 「主体的」に動く大人。 「その言葉の違いなど、どうでもいい」と言われがちだが…この二つの言葉の違いは、どうでも良いことではない。 能動的姿勢としては似ているが、何に対しての動機付けなのかが全くが違うからだ。 もちろん、それも大切なことだ。 だから、全く否定はしない。 一方で… 「やってみるからこそ、その先のことは見えてくるものがあるし、やったことの先の意味は自分で見出す」という気構えでもある。 そのため、周りからの満足や賞賛を得たいのではなく、

「競争」の美徳化は子供も大人も疲弊させる ≪前編≫

結論:「競争」の濫用を無くす前編と後編に分けた長文コラムとなるため、先に結論を述べます。 子供教育、学校の部活動、家庭、社会人の職場でも、あらゆる場面で… 「競争」という言葉は、無闇に使わないことをお勧めします。 こう提唱すると、多くの人が持つ「常識」に一石を投じるものとなるのか、なかなかの物議を醸し出すようです。 一つの話題としての対話になるどころか、「競争に勝てない負け犬の遠吠えだろう」と一蹴されることも、何度も経験しています。  それでも、次世代の子供達のためにも、

「競争」の美徳化は子供も大人も疲弊させる ≪後編≫

■競争心理は遊びの中で充分イギリスの哲学者、バートランド・ラッセルは、「競争心理」は、誰もが幼少の頃から自然と「遊びを通じての本能的欲求」の一つとして持っているものと示しました。 そう…周りから競争心を掻き立てる必要などなく、「競争心理」というのは、そもそも人間の本能的欲求に存在しているものだそうです。 つまり、幼少時期にある「筋肉を動かす自由、運動の自由、騒ぐ自由、仲間をつくる自由、意識を自由にする自由」においての、自らの成長過程での「遊びを通じての本能的欲求」なんです

納得できないことで得る空虚な安定

本来は個性があったはず「納得」できることを放棄することが増えると、最初は意図していなかったのに、いつの間にか「自己犠牲こそが美徳…働くとはそういうこと」という正当性の主張まで飛び出すようになる。 ところが、その先の成れの果てに、守ってくれていると信じてきた場所で、自分の存在価値そのものが薄れていることに気づいてしまった時に迎える虚しさほど、残酷なことはない。 あれ?自分は何のために頑張ってきたんだっけ…? 自分の「納得」よりも、チカラある人や組織に迎合して、結果として「満