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サッと読める大男の散文

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働きも暮らしも人育ても、主体的に自分を活かして生きる「イキ活」の実践者、河合義徳が、ふと思うこ心の叫びの短文エッセイ集。
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#やり方よりあり方

心を感じる議事録

伝えたいことが簡潔明瞭で読みやすい議事録(発言録)は、読み手の「脳」よりも「心」に届くこともある。 出席者の振り返りのみならず、事情があって欠席した人も含めて「関係当事者に温度差が生じないための記録」であることが明白なものは、読み手への「配慮」が感じられる。 そこには記録者の「能力」ということ以上に、お人柄を感じるんだよね。 チームに集まる各自が、それぞれ次への有機的な行動につながるように、会合で確認し合った熱意や運営の方向性についての「記憶」が蘇るようなまとめ方だと、何

人の描く未来をなぞるな

価値づくりをチームで臨む時、その先に同じ未来を見据える事は不可欠。 但し、目的さえブレなければ、辿り着き方は人それぞれで構わない。 自分の主体性を信じて、自ら辿り着き方を描くことが肝要なんだ! むしろ、人によって、いろんなアプローチがあるほうが、チームとしての価値づくりにも「深み」が増すというものだ。 誰かが示した未来を、その人の言うとおりになぞるのは作業であり、対等に歩む仲間としての仕事ではない。 共に描いたはずの未来なんだから、最初に示した人の未来をなぞるな! 山登

夏の「自由」研究

「遊び」は、人に与えられるものではない。 「遊び」こそ、自ら切り拓いていくものだ。 (ここで言う「遊び」とは、もちろん「学び」も含まれる。) 周りの人が、いろんな「遊び」の機会や道具を与えることとも、決して悪いことではない。 何か、夢中になれるものに出逢えることもあるからだ。 しかし、それは一つのキッカケに過ぎず、自分の「遊び」がいつまでも他力本願では、「遊び方」まで手取り足取り教えてくれる人を探そうとするし、そういう人に依存してしまうようになる。 一方で、自ら本気で探

「夏休み」という言葉の違和感

「夏休み」という表現が、しっくりこない。 『こんなに宿題を出されるなら、休みとちゃうやん!』と、初めての夏休みに入る小学一年生の時、担任の先生に猛烈に抗議した50年前の記憶が、今朝の夢に出てきた。 その後もコレに疑問を持ち、抗議する小学生は現れていないんやろか? 小学生によるデモ行進は起きていないんやろうか? 抗議すると、「遊んでばかりではいけない」と大半の大人から返ってくる。 宿題がないと遊んでばかりで学力が落ちる?…そんなことないよ。 勉強が好きな子は、何も言わなく

提言:小中学校で多数決を廃止

広く「知識」はあるが、いろんなことに「関心」がない。 無関心のままだと視野も狭めて、そのうち知識も薄れる。 今は「知識」はないが、いろんなことに「関心」がある。 関心事が高まると着眼点が冴え、そのうち景色も広がる。 心が関わらねば、誰が応えても同じ「知識」にとどまる。 心を働かせると、その人にしかない「知性」が芽生える。 残念なことに、主体性や独自の知性を持つ大人が少ない。 残念なほどに、頭ばかりを使って心が働いていないんだ。 未来に活きる価値づくりの現場で、つくづく

営業の熱意とは…

毎年夏にかけて、新入社員さんと思われる「この地域の担当になったので、社長様にご挨拶を」という飛び込みが多いのです。 そういう決まり文句・一辺倒なアプローチしかできないなら、突然訪問されたこちらは「迷惑」でしかありません。 しかも、「一日にどれだけの名刺をもらってくるかが、新入社員として通るべき道」という育成していない上司がいる会社は、新人さんにも訪問した先にも「大迷惑」でしかありません。 訪問先が、既存の取引先であろうが新規開拓先であろうが… 訪問を受けた側にとっては

現場で流す汗と涙にこそ手応えがある

実体抜きでの改善案はキケン経営体制をどうするとか…どういう思考が大切かとか…そういう事の前に、お店や会社の運営では、価値づくりの舞台裏に、どういう「人」がどういう「想い」を持っているのかを抜きにで形に酔うのは、とても危険。 関係当事者が全体像と未来像を、どう向き合うようになるのか環境を整える重要性を痛感。 未来に向けて、どこにいる誰にどういう幸せを築きたいのかという「立てた旗」に共感するからこそ、事業運営に関わる身として、少し離れた距離の立ち位置だからこそ、社内の課題が見

ロックな仕事仲間

評論は誰でもできる。 判断はAIでもできる。 対話は心を交わそう。 ボクらは未来のあたりまえを創る。 正しい答えがないから本気でやる。 心が躍動し始めると美しさは出る。 無知であることが問題ではない。 無関心であることのほうが問題。 心を使わないなら共に歩めない。 仕事とは、ロックなんでね。 周りの目を気にしたり迎合することなく、嘘のない自分で仕事をする「ロックな人」の生きざまには、美しさを感じる。 楽しいことを本気で探究し続ける道には、何一つ楽なことが無いのも覚悟

「センスが良い」とは何を意味して、どこからくるのか?

自分に似合う装いを知っておくとか… 等身大の佇まいや暮らしを築くとか… 自分の苦手な事を素直に認めるとか… 自分が活きる場を自ら切り拓くとか… 身の丈を受け入れて歩んでいると、がんばり方を間違えないようにもなる。 順風満帆な事ばかりではなくとも、多少の失敗も自ら笑い話に変えている。 もしかしたら「センスの良さ」というのは… 「素直な自分でいる状態」に表れるのかも… だから簡単なことじゃないのかもしれない。 以前、デザイン協会の会長を長年務めておられた人生の大先輩が、

「人を見る心」が感じられる瞬間

自分の仕事に「ひと手間」かける。 目の前にいる人の「想い」に寄り添って「ひと声」かける。 自分達が提供する価値の先に、お客様の暮らしにどういう変容をもたらせたいのか…または、その価値づくりの現場となる職場でも、どういう心配りをするとお互い気持ちよく仕事ができるか…相手先に「想い」を馳せる。 「ひと手間」も「ひと声」も…かける背景には、必ず「想い」がある。 その「ひとつ」の「想い」が、本質的に未来のつながりになる。 人を見る心…「想い」が生まれるから、自然と誰かのために「

潤いのある言葉で寄り添う

言葉は浴びせるものではない。 言葉は「添える」程度でイイ。 人を育みたいのなら、言葉を浴びせてはいけない。 本人がやろうとしたことの言語化に付き合って、一緒に考えてあげるだけでイイ。 それは、店頭での接客の場面でも同じ事。 来店者の心を開かせたいなら、闇雲に言葉で畳みかけてはいけない。 来店者が実現したい未来に、可能性の高まりを感じさせる期待値を言語化することにお付き合いすることで、充分安心してもらえる。 子育てでも、接客でも、職場でのコミュニケーションでも… 相手を慮