見出し画像

音楽に正解は「ないが、必要ではある」【エッセイ・2023年10月】


巷じゃよく聞く話だよ。

「音楽に正解はない」

自分の想う音楽を表現できることが強いて言えば正解であると。


その言葉に異論はない。誰かが心血をそそいで作った音楽を「それ、間違ってるぜ」なんて言える権利をいったい誰が持っているというんだ?

音楽に正解はない。そりゃ、その通りだ。


では、「音楽に正解はない」のであれば、「音楽に正解は必要ない」ということも言えるのか?

楽しけりゃそれでいいのか、と。


そういう考え方をするヤツがいるのもアリだとは思うけど、個人的には賛同しかねる。

音楽に正解はないが、正解が必要ではある。と、俺は思うぞ。

我ながらややこしい。



最近、あたらしくつながった音楽仲間と音を合わせる機会があった。

ドラム(というかパーカッション)のアレンジをどうするか決めようというときに
ドラマー(※というかパーカッショニストなんだけど毎回“パーカッショニスト”と書くのが面倒なので簡易的に“ドラマー”と呼んでしまう無礼を許してください。パーカッション担当のNa〇kiさんごめんなさい)からいくつか案を頂いて。

さすがリズムの屋台骨なドラマーNa〇kiさん。偉そうに足組んでぽろぽろ爪弾いてる僕では気が付くことのできない絶妙な目線でアンサンブルのツボをついてくださった。


出してくれた案は、、、ぶっちゃけ、、、

どれでも、よかった。


どれでもいいといったら無責任に聞こえるかもしれないけれど、どれも悪くないといったら、その辺のニュアンス、伝わりますか?



さて、ここで、どうするかですよ。本当に「どれでもいい」というのなら、案が複数あるなかでそのすべてのテイクを本番でやるんか?同じ曲を何回も?てなことになる。当然のことながら、そんなわけにはいかない。

どれかひとつに決めなければならないが、そのひとつをどうやって決めるのか?


その際の基準となる存在が「正解」である。


リズムを強調するアレンジと、ギターの音を綺麗に聴かせるアレンジと、歌を引き立てるアレンジがあったときに、どれにする?

そのなかでたとえば、この曲はボーカルがオイシイから歌を引き立てる方向で考えよう。となるのが、ここで言うところの、「正解」。

だから、「正解は必要」なのである。


その一方で、では採用されなかったリズムを強調するアレンジと、ギターの音を綺麗に聴かせるアレンジは

「不要。ボツ。使えない。無価値。要らん」

という意味での「不正解」なのかというと、そうではない。

「正解はない」という意味は、そういうこと。

したがって、音楽に正解は「ないが、必要ではある」、のである。



これはどんな音楽においても言えることなのだけれど、音楽というものは同意やコミュニケーションをもとに作られていくものである。

たとえひとりで書いている曲であっても、お客さんとのコミュニケーションをもとに音が決まる。
依頼されたわけでもなく発表する予定もない曲を一人で書いているのだとしても、その曲は「曲を書いている自分」と「曲を発注した自分、聴きたい自分」とのコミュニケーション(と呼べるのかわからないが、異質な存在同士のせめぎ合いという意味で)をもとに発展していく。

制作において、こころゆくまで好き勝手ギター弾かせてくれ!ってわけにはいかないし、そういうことがしたいのなら、レスポールだけ担いでスタジオノアにでも籠ってればって話になる。



他者とコミュニケーションをとる際に、何を基準にしてどのようなことを決定するのか、ということは非常に重要である。ことしのなつやすみどこいく?という恋人との話題では、たとえば「二人がお互いに楽しめることを基準に、一日のデートプランを考える」。もしくは「自分はさておき相手に存分に楽しんでもらうことを基準に、どうすれば相手に楽しんでもらえるかを考える」。

同じ「夏休みをどう過ごすか」というキーワードに対しても、アプローチによっては答えがディズニーランドになったり聖地巡礼になったり様々変わるという、こういうわけである。


逆に言うとそういうことをきちんと考えていないと、なつやすみどこいく?と聞いてくる彼女に対して大真面目に「君が喜ぶならどこでもいい」と答えてしまい、夏の思い出と恋人を同時に両方失うことになるので気を付けてください。


話が脱線したが・・・同じように音楽においても、「基準=正解」が定まっていないと、え、ぜんぶいいじゃんふつうに、となるので、決めなければならない物事が永遠に決まらない。

そもそも基準がない世界で「良い音楽」と「そうではない音楽」を区別することなど、できるわけがない。その人が良いと思っているものを否定する権利なんて誰にもないのだから。もしあるとするのなら、「このイベント、弾き語り限定だけど、きみインストやるんだって?募集要項とか、事前にちゃんと読んだかな?」というような、基準に対してその人がどれくらい満たしたか、という見方。


それを「正解」という言葉で括ってしまうとちょっと具合悪い気もするのだけど、求められる基準はどんな世界にも存在するものでありながら、世の理がそれによって統一されてるわけではないから、そんなに、思いつめなくたっていいんだよ。

って言いたい人がたくさんいる。


セッションイベントに参加する人は、上記で言ったような「基準をどこにするか」という打ち合わせを、4分30秒の演奏の中の出来るだけ早い段階でまとめていたりする。

それも、このテイクでそこまでの話が音で出来るメンバーは誰なのかを把握して、その人に音で了承を得て、なるべくワンコーラス終わる前1分30秒前後くらいにはそれらをまとめときたいみたいなことを、たぶん考えるものだと思うので、セッション出来るってめちゃめちゃすごいんですよ。セッションってそもそも即興演奏じゃなくて「会議」とか「打ち合わせ」という意味ですからね。


まぁ俺はセッション出来るけどね。へへっ。
だからといって認めてもらえてるかは知らないけどね。

・・・へ、へへっ、、、、、、


まぁ、ジャムだろうが、レコーディングだろうが、制作だろうがリハだろうが何だろうが、俺の基準は「他人に迷惑を掛けずに自分を主張すること」なので。

それはいまのところブレてないし、今後もしかしたら変わることもあるかもしれないけど

ブレるものは正解と呼べないだなんて、つまんねえことを

言いなさんな。

ブレてはいけない正解は、チャート式や赤本に既に載ってるのだから。



正解を見つけることが人生の目的だと勘違いすると苦しむ。

正解をつくることが人生の意義だとわかると楽しくなる。

正解をカスタマイズすることが人生の本質だと知ると、他人に優しくなれる。


キミがどう思うかはわからないが、俺はそう思うぜ


このマガジン「弦人茫洋」は、毎月一日に書いているエッセイです。
バックナンバーはこちらからお読みいただけます。

みなさまの支えのおかげで今日を生きております。いつもありがとうございます。