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ギターを愛するということ【弦人茫洋・9月号】


このマガジン「弦人茫洋」は、毎月一日に「長文であること」をテーマにして書いているエッセイです。あえて音楽以外の話題に触れることが多いです。バックナンバーはこちらからお読みいただけます。



 iPhoneのケースが壊れた。今のiPhoneにしてからもう2年半近くが経つから、ケースも同じくらいの期間つかい続けてきたということになる。デニムが色落ちしたりギターの塗装が剥がれたりするみたいに時の流れを感じさせる道具になら愛着も湧くが、iPhoneはその範疇にない。割れた画面はヴィンテージギターに入ってるクラック(経年により塗装が乾燥してひび割れることにより発生する傷)のように独特な価値を持つロマンなんかじゃなくて文字通りただの傷でしかないし、使い古されたら更新されていくべきものであって新しくて綺麗であればあるほどいい。そのiPhoneを守る存在であるケースはというと、より一層インスタントな価値で、壊れてしまってはどうしようもないので買い替えるしかない。そう考えると俺のiPhoneケース、2年半、長寿だったのか短命だったのか、どっちだ、割とどっちでもいいが。

 それにしてもiPhoneケース(iPhoneに限らずスマホケース)って本当に必要なのか?「保護する」という目的で考えると昔から大きな疑問だった。スマホそのものの耐久性がどんどん上がっているというのなら、ケースの耐久性はそれと反比例しないとどうやら辻褄が合わない気がする。ケースを装着して使うことが大前提になるのなら、スマホ本体のカラバリは不要だと思うし、そのあたりの文化が良くわからん。こんなの屁理屈みたいなもんだけど、真面目に考えるならスマホケースは洋服みたいなものだと思っている。スマホがそもそも拡張された人間の肉体で第3の腕みたいなものだから、裸っぺってわけにはいかないという、そんな感じか。真夏で暑いからって全裸で街中に繰り出したら逮捕されるのと似ている(いや、似てはいないが、全然ちがう話だが、理屈としてはそんな感じか)。

 ともあれ個人的な感覚として、新しいモデルが出るたび頑丈になっている(とメーカーは言っている)スマホにケースをつけるのは頓珍漢な気がしないでもない一方で、そういう無駄さにどことなく好感を持っていることも事実だったりする。ポッケになってるわけでもない使途不明なチャックのついている服、唐揚げの下に3 ~ 4本だけちょこっと敷いてあるパスタ(これには「唐揚げの油を吸わせる」という目的があるそうですが、その油を吸ったパスタだって結局は食べるんだから同じでは…?などと思う)、鉛筆の尻についているほとんど消せない消しゴム、etc、スマホケースも俺の中ではそれと全く同じではないけどそれなりに近い部類にカテゴライズされている。だから今回スマホケースが壊れたとき、意外にしっかり残念だった。

 なんというか昔からこういう「ガワ」に対しての愛着が決して弱くなかった。床に放り出していたCDケースをうっかり踏んで割ってしまったらCDそのものは無事でも心理的ダメージはなかなかキツイものがあったし、年季の入ったハードケースはギターそのものよりも愛せるような気がした。

 この古いグレッチを買ったとき、選ぶ基準は基本的に音だった(いちおう音楽家なので)。その一方で音と同じくらいあるいはそれ以上に大きな決め手になったのは、この、風格漂いまくりなハードケースの貫禄や見た目だったりした(いちおう音楽家なのですが)。このときは道具として楽器を探していたのではなく「ヴィンテージギターを購入するという体験」をしたかったので、買い方としてはそれで120点満点なのです。本当は60年代のフェンダー系を探していたけど、このケースに勝てるのは居なかった。居なかったんだよなあ。と当時の自分がデカい声で言い訳してるのが聞こえる。

 いずれにしても、ガワを愛すというのはそういう意味です。iPhoneだって、本体のカラーに結構こだわって渋い色にしてもらった割にはケースを選ぶ時間のほうが長かったくらい。


 自分のこういう性格はどうやら外からも丸見えのようで、表現は違うけれど同じことを先輩にも言われた。楽器を演奏する人はいわゆるオタク気質な人が多くて、材質や仕組み、パーツの違いに物凄く詳しかったり強いこだわりを持っていたりする場合が多いけど、キミはそういうタイプじゃないよね、音にこだわりがないというわけではないんだけど、細部にこだわるというよりは自分の使いやすい道具で自分の想う音を出せることのほうが大事って感じだよね、と。あまりにも仰る通りだったので笑ってしまった。俺を語る先輩は、俺自身よりも俺だった。

 俺がギターを買う基準には雰囲気とかフィーリングみたいなものがあって、それは洋服を買うときの気持ちにも似ている。服屋に行って、実用性という意味ではサイズくらいはチェックするとしても、繊維の素材や原産国や仕立ての技術や染料について詳しく調べて比較検討するということはほとんどないというような。そんなわけでいわゆる「機材厨」と呼ばれるタイプの人々と話すと自分の知識の乏しさに愕然とする一方、彼らの語る内容の深さに興味津々だったりもする。これはどこどこのメーカーが○○年から××年の間にだけ製造していた△△というパーツが使われていて音にはこういう風にその違いが反映されていて…その語り口は流麗で心地よく、ギターという楽器の深みを改めて思い知らせてくれる。俺なんて「実践には向かないけど好みとしてはこっちがいい」とか「もうちょっとガシガシ噛みついてくれるタイプがすきです」とかそんなことしか言えないのでめちゃ恥ずかしい。きっと、より強い興味を持っている対象の違いなのだろうとは思うけど。

 昔は欲しいギターなんて星の数ほどあって、それこそ洋服のように気軽に買っていた。ここ数年はそういうギター欲が落ち着いてきていて、欲しいギターってあんまりないなあ。恋愛はしたいけど好きな人いないんだよねみたいな状態、いや、今だって15本だかそれくらいギター持っているから恋愛に喩えるとややこしいことになる、先ほどの喩えはやっぱり忘れてください。

 ある時期に当時持っていたギターを思い切って整理した事があって、たぶん半分近く手放した。その中には思い入れのあるギターももちろんあったから苦しい作業だったんだけど、結果的に今手元に残っているのはその選抜を潜り抜けてきた精鋭たちだということになるので、愛していないほうがおかしいくらいなんです。手放したことを後悔してるギターもあるけど、もう、それはそういうものなので。売らなきゃよかったなんて二度と思いたくないから、今のメンツを大事にしているし、だからこそ新しいギター欲しいと思わなくなったのかもしれない。

 こういう、ギターに対するアティテュードというかスピリットみたいな部分って、ギターに対してはおそらく「ガワ」なんでしょう。所詮は物言わぬ道具ですから。ただ、道具とはいえ付き合いも20年近くなってくると腐れ縁を感じるようなところも結構あって、それは、愛している一本に対してとかではなく一般的にギターという存在についてということですが、自分にとってギターを愛するということの意味が20年のあいだ変わり続けているなかで、手放したことも愛であれば残したことも愛であって、ギターも俺を愛してくれているのだとしたら少しはそれに答えられるような演奏ができるように、自分らしいギターを弾けるように、ジユンペイに弾いてもらえてよかったとギターが思ってくれるような演奏ができるように成長したいと思って日々精進しています。

 結局何を言いたかったのか自分でもよくわからん記事になりました。9月もよろしくお願いします。


※カバー画像は以前note企画で清世さんに描いて頂いたものを使用しました。


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