『コンビニ人間』感想
ーー皆、変なものには土足で踏み入って、その原因を解明する権利があると思っている。
というのは、村田沙耶香さんの小説『コンビニ人間』に出てくる一説。
2016年の芥川賞を受賞した作品で、キャッチーなタイトルとセンセーショナルな内容で大きな話題を呼んだ。
物語は、どの視点から見るかによって、自分にとってそれの持つ意味が変わるから面白い。
たとえば桃太郎をおじいさんおばあさんの視点で見るか、桃太郎自身の目線から読むか、鬼の立場に立ってみるかで、まったく別の話に思える。そういう発想で書かれた太宰治の『おとぎ草子』が傑作なのでもしよかったらぜひどうぞ。
『コンビニ人間』には数多くの人物が登場する割に、立場が(ほぼ)二つしかないのが印象的だった。
正常 vs 異常
社会 vs 個人
多様 vs 画一
一般 vs 特殊
そんな風にいろいろと読み解けるけど、構造としては常に二項対立になっている。
読者は、いったい自分はどちらの立場をとるのか、選択を迫られる。
個性を尊重させてもらえるなら社会のつまはじきものになってもいいと思えるか、そうではないか。
常識的に考えたら○○だけど、この人の気持ちもわからんではないよね~、みたいなのがない。
中間がない。
主人公である古倉さんに共感するなら全面的に彼女の肩を持つことになるし、それが嫌なら社会や世間の側、白羽さんや店長たちのサイドに立って古倉さんを攻撃することになる。
中間がない、ということに厳しさを感じる。どっちか選べって言われている気分になった。
で、そこで積極的に「選べる」人はほぼいなくて、なんだかんだ言っても結局いろんなものに屈して社会側にまわることになりそう。
古倉自身が矛盾を抱えているので、彼女を理解しようと努めることがどんどん難しくなっていくことに気が付く。
”皆、変なものには土足で踏み入って、その原因を解明する権利があると思っている。”という言葉は「変なもの」の意見だけれど、そう思う時点で自分が”「変なもの」であること”を理解しているということで、自分が変だと理解するためには一般的な常識も理解している必要があるが、一般常識を理解したうえで「変なもの」であろうとすることは故意であるということになり、多様性の一部としての異端というあり方が根本的に成立しないから。
小難しく書いてしまったが要するに、、、たとえば、、、
聞かれてもないのに目玉焼きにはマスタードをかけて食べると自分から言うような奴は、一般的に目玉焼きといえば醤油か塩をかけて食べるものだってわかってるからこそ、そうではない自分を見せて目立ちたいだけ、みたいな感じ。それって逆に、ものすごく常識的な人間だってことを自ら証明しちゃってるようなところあるよね、っていう。
同じことを古倉さんに当てはめて考えた場合に、結局は彼女が自分のことをどう捉えてるのか?って話になる。
「コンビニでしか働くことができない」
のか?
「コンビニでなら正常になれる」
のか?
たぶん、前者なんだろうなって思った。
『コンビニ人間』、読んだ記憶があったはずだけど、内容を全く覚えてなかったので、まぁきっと読んでなかったんでしょう。
ある程度年齢を重ねてから読むと感じることも深いのでは?そんな小説だと思いました。
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