日記随想:徒然草とともに 2章 ㉕

 第33段と第34段、第35段は、博識の法師が筆にまかせて書き留めた、日記風覚書、メモ書きのようなものであろうか。
 第33段は、1308年に、花園天皇が即位され、1317年春、新たに二条富小路に竣工された内裏に移転される直前の裏話のようなものである。
 新内裏を有職の人々に検分かたがた見せられたところ、どこも難無し、とのことだったが、いよいよお移りになる日が迫った時になって、花園天皇の祖母にあたる玄輝門院が、ご覧になって、以前、閑院内裏の時は、清涼殿と殿上間との壁の上にある櫛形の覗き窓は、穴がまろく、縁も無かったが、今度のは、葉の先端のような鋭い切込みのある縁つきで、前のとは違う、といわれ、あらためて直されることになった。という話である。
 実はこの閑院内裏は、古き良き時代の象徴だったのだが、1259年に焼失してしまっていた。ところが、玄輝門院はこの時代の数少ない生き残りであられ、閑院が焼失したときは、御歳14歳の少女であられたが、驚異的な記憶力で、もとの形を証明され、直すことができた、と注にある。

 いづれにせよ、実はこの年頃に住み慣れた古い家のたてつけの戸障子の造作、祖父の部屋の粋を凝らした天井や丸窓など、あれこれの記憶は、幾つになっても、ありありと目に浮かぶ経験は、わたしにもあるので、なんとなく胸が詰まる話ではある。人間の記憶とは、そういうものなのであろうか。 

 34段の”ほら貝のような小さな貝の蓋”粉末にして練香として用いる,などと、注にもある「つなたり」と呼ばれていたらしい貝の話。武蔵の国金沢(現在の横浜市金沢区)の浦で採れる小さな貝の蓋のことらしいが、わたしは祖父の書斎で、造りつけの書棚の下の引き戸で開ける納戸に、いつもいくつか仕舞われていた練香の小さな入れ物が思い出される。

 35段は字が下手でも遠慮しないで文を書き散らすがよくて、見苦しいからと言って代書させるのは”うるさし”という一言で片づけられている。うるさし、は現代語訳では「嫌味なもの」ということばになっているが、法師自身は、うまかったのか、拙い方だったのか、わたしは知らないが、能書という話は聞いたことがない。
 いづれにしても古人の書は、すべて筆による手書きで、判読するのは、なかなか苦労だと思う。第


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