日記随想:徒然草とともに、2章➁続

 ここで兼好法師が云いたいのは、古き良き時代の為政者の姿勢であった。二人の古人の名が挙げられる。ひとりは九粂殿、藤原師輔およそ300年前の正二位右大臣、かれが残した遺戒によれば、”衣冠や馬・車に至るまであり合わせを用いよ。美麗を求むるなかれ”というものだったとか。また第84代天皇、順徳院も”公務の服装なども、粗末なものでよい”と、宮中のことなどを書かれた文書に記されている。という。
  政治の仕組みが現代とは全く違うとはいえ、上に立つ人々が心すべき実質的見解であり、当たり前のことながら、現代でも現実的な極めて常識的な意見として十分通用する。

 さて続く第三段、兼好法師の視線は、180度変り、ひるがえって人間性の深部に食い込む。まず”よろずにいみじくとも(素敵でも)色好まざらん男(女性に恋心を抱かない男)は”、という書き出しで、”いとそうぞうしく(ひどく殺風景で)と続き、独特のユニークな譬えで結ぶ。”玉の盃の底なき心地ぞすなれ(するものだ)”と。ここでいう”よろずにいみじい”理想像とは、現代でいえば、(ハンサムで、声さわやか、頭もよくて、人あしらいは上々、ものごし優雅ながら、スポーツ万能、音曲巧み)といったところであろうか。そして、にもかかわらず、色恋に無関心な態度の男だと、どこか物足りなくて”玉の盃の底なき心地ぞすべき”、という表現は、まさにぴったりと思うが、これは、注によれば、中国の文選、二.左思・三都賦序にある表現とか、兼好法師の博覧強記ぶりのたまもの、というべきか。それはさておき、本題はこれからなのである。 
  
 ”露霜に濡れそぼちながら、好ましい女性を探し求めて所かまわずさまよい歩き(注:古今集恋の四、業平朝臣をそしった女の歌などから借りた表現)親のいさめや、世間のそしりなどを気にして心休まる暇もなく、はてはあれやこれやと思い悩み(註:古今集にあり)独り寝の夜を眠ることもできずにいるのこそ、まことの男らしく面白い、と書くのである。しかもその描写を、あたかも修正するかのような表現を、末尾につけ足すのである。
 すなわち、かくいうものの、こうした男ながら、ひたすら女色に溺れるというわけでもなく、女から軽視されることもないのこそ、”あらまほしける”すがたといえるであろう、と。ひょっとして、このあたりの達観ぶりは、若き日の兼好法師自身のすがただったのでは?と思わせるくだりでもある。
 
 そして、続く第四段では、にわかに姿勢を立て直し、来世のことを心して忘れず、仏の教えの道を忘れずにいるのは 床しく”心にくし”と神妙な数語を書きしたためて終わる。

  

 


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