徒然草をひもといて 5章㊴211段よろづのことは頼むべからず。・・・

 ここでいうよろずの事、とは、生きていく上で、ひとが、頼みにすること全般を指しているのは云うまでもない。まず勢力、次に財力、続いて身についた才能や徳、あるいは君主の寵愛、または従僕などの信頼、ひとの志、約束ごと、などなどとおおよその依存条件が並べられている。
 しかし、学者によれば、古代インドの哲学ヴェ―ダンタは「条件付きの幸せは形を変えた不幸である」といっているそうで、よく考えれば確かにそう云えると思う。
 それなら一体どうすればいいのか?といえば、兼好法師によれば「身をも人をも頼まざれば、是なる時は喜び、非なるときは恨みず、左右広ければ障らず、前後遠ければ塞がらず」と条件付きの幸せを否定している風通し抜群の提言であり、さきに挙げたヴェ―ダンタの説く所に近づいた心境で、対人関係などに、ゆったり構え、喜怒哀楽にとらわれず、環境に煩わされることもなく、“人の性なんぞ異ならん”の悟りを抱いていきるのがよろしかろう、というものである。
 だが、これは係累などを持たず、衣食住もいちおう事足りている法師の身ならいざ知らず、こうはいかないのが、この世であって、法師の説はとかく住みづらい浮世では、単なる空疎な理想論に過ぎないではないか、といわれるかもしれない。
 しかし、一度自分の意識が、今いるところから、無限に広い宇宙の中にひろがっていると思えば、わたしというものは、ここにいて、同時にいたるところにいる、ということになる、という説が、詭弁だ、と反論するのは自由だけれども、世界的に著名なハーバード大学出身の代替医学のパイオニア、ディ―パック・チョプラ博士の説くところによれば、すべて、かかる対象依存(ああだからこうなる、こうだからできない、などという)のは、自分自身の感覚だけを信じて、現実を構成していて、こういう知覚による経験はある種の幻想である、というのである。これはある意味で、法師が云わんとしていることにいささか繋がっている、と云えないことはない。 
 こみいったことは、また機会をみて紹介するとして、この段の兼好法師の結論は「人は天地の霊なり。天地は限る所なし。人の性なんぞ異ならん。寛大にして極まらざる時は,喜怒これにに障らずして、物のために煩わず。」というもので、中国の尚書にもこうした記述はあるというが、わたしは、現代の量子力学的にも符丁の合う進んだ見識として、味あうべきではなかろうかと思う。


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