徒然草をひもといて 5章㉓175段  酒を勧めて、強(し)い飲ませたるを興とすること

 この段で縷々と述べられている飲酒についての慣習は、800年余を経た今も、この国には、まだ残っている、と知ったら、わが法師は驚くであろうか?
 飲酒を勧められた人の、堪えがたげに眉をひそめ、人目をはばかりつつ捨てんとし、逃げんとするをとらえて引き留め、”すずろに飲ませつれば”・・・息災なる人も・・・病者となりて・・・前後も知らず倒れ伏す。・・あくる日まで頭痛く物食わず・・公私の大事を欠きて、わずらいとなる。人をしてかかる目を見すること、慈悲もなく、礼儀にも背けり”。と。・・、法師は、このような行為を、もし「人の国に(どこか他国に)このような風習があるそうだ」ということを、そんな風習のない国の人が伝え聞いたなら、きっと、とんでもない風習だと、不思議に思うことだろう。と慨嘆する。けれども、こういう慣習が、この国には、一部といわずいっぱんに、まだまだ残っている、と知ったら、さぞかし驚くことと思う。それはさておき、本文を読んでいくことに・

”世に心得ぬことの多かり”で続いての心得ぬことは、酒席の話となる。酒を勧めて,人を酔わせ、その挙句、相手を苦しめ、”奥ゆかしく思っていた人が、げらげら笑い、口数多く笑い罵り、烏帽子ゆがみ、紐はずし・・日頃の人とも思えず、女も額髪掻き上げて顔を上げて大笑いし、盃持つ手に取りすがり、声の限りに歌ったり舞ったり、年老いた法師が召し出され、黒く薄汚い身体をさらして肩ぬぎして、目も当てられぬほどなのに、それを見て興じている人さえ疎ましく憎たらしい。
 かと思えば、自慢話をえんえんと聞かせたり、ある者は、酔い泣きし、下ざまのひとは、罵り合ったり,喧嘩になったり、あさましく、恥がましく、果ては許されない物を押し取ったり、縁や、馬、車から落ちたりなどの過ちをする。こころ憂きことのみ多く”百薬の長とはいえど”、よろづの病は酒より起こる、”憂れい忘るといえど、酔いたるひとぞ、過ぎにし憂さをも思い出でて泣くめる”と並べ立て「後の世は、人の知恵を失い、善根を焼くこと火の如くして、悪を増し、よろづの戎を破りて地獄に堕つべし」と手厳しく、そればかりかさらに「酒をとりて人に飲ませたる人、五百生が間、手なきものに生まる、とこそ仏は説きたまうなれ」と經典を引用して結ぶ。
 この最後のくだりは、かなり厳しい論調であるけれども、最近、この国でも、頻々と起こっている犯罪の、底知れないひろがりを見たり聞いたりすると(おそらくお酒もからんでいるであろうことも思うと)人間という生き物の業の深さを思わずにはいられない。
 だが、よろづの罪はお酒にあるわけではなく、次の展開はまた、その無限の楽しさも捨てがたいことを流麗な筆にのせて描いている。次はそれを読んでゆきたいと思う。 
 なおここ2,3日、テレビの接続ミスがあり、休んでしまったことをお詫びします。


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