日記随想:徒然草とともに 2章 ⑮

 日に日に薄くなる初冬の日差しが、空にひろがる土曜日、徒然草とのお付き合いも22段に進んできた。
 昨日とは打って変わって、懐古調の書き出しは”何事も古き世のみぞ慕わしき”という法師が、このさきもしばしば繰りかえす詠嘆ではじめられる。
 けれども、これを口にするのは、とくに兼好法師のみの独壇場ではなくて、かつてヨーロッパなどでも、いにしえのローマ人も口にしていた、と聞いたことがある。
 ひとの心はいずこも同じ、昔を懐かしむのは、翻って、現在の世の風潮になじむことができずに不満を抱き、失われたものをひたすら哀惜する人間の習性なのかもしれない。

 それにしても”今様は無下(むげ)にいやしくこそなりゆくめれ”というのは、言い過ぎのような気がするが、調度品にも目が肥え、センスが良かったらしい法師の回顧調を聞くと、”かの木の匠の造れる、美しき器ものの古代の姿”は、どんなものだったのか、この目で見て触ってみたい気にもなる。

 そして現代、こういうことはもっと速いスピードで失われていっていることが痛感されるのである。戦前の調度類の懐かしさは兼好法師ならずとも、私などはやはり、懐かしさに痛みさえ伴って思い出す。

 話を変えて、当時の文反古の詞(ことば)や、現実の日用語、さらに 数世紀むかしの都の宮廷用語については, 専門家でもない限り、そうですか、という程度にしかわからないが、視点を現代の日本の社会にうつすと、納得できる事例は数えきれないほどある。


 戦前の旧制度で教育を受けた世代から云うと、手紙類の用語ひとつをとっても比較にもならない変革ぶりであるし、日常使われる用語や使用例もここ数年、特にどんどん変わってきている。若者たちが使う言葉となると、もう外来語に等しい。じつにヤバイことになっている。ヤバイなんてもう死語だ。とさえ云われたことがある。

 事務用語も、大きくかわってきた。突然企業などから電話がかかり「xx様でよろしかったですか」と聞かれて「え?」と驚いたのはもとうの昔のこと。「よろしくなかったらどうなりますか」などと冗談を言って事務を妨げようとは思わない。さらに「失礼ですが、ご本人様でしょうか」と畳みこまれて、どぎまぎなどしていられない。「くちおし」などと悠長なことを云って取り残されるわけにはいかない世ではある。

  
 

 

   
  

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?