日記随想:徒然草とともに 2章 ⑫

 花と言えばわが国では桜と決まっているのは今も昔も同じ。折悪しく、雨や風に散り果てるのを惜しむ気持ちは、何百年たっても、変わらない。こうして”青葉になりゆくまで、よろづにただ心をのみぞ悩ます”とあり、同じ気持ちであっても、桜のことばかりに心を傾けていられない現代の暮らし、つましく暮らし、閑暇をえらんでいる古人の境涯がふと羨ましい気分にもなる。

 こうして季節を追いながら、法師はさらに筆をすすめ、花橘もさくらにに劣らず古来から、名を馳せてはいるけれども、梅の匂いも古今集などにも歌われ、いにしえ恋しい気持ちにさせられ、さらに清楚な山吹の花や、藤の花の頼りなげに垂れているさまなど、いづれも捨てがたいおもむきがある、と書き綴る。

 四月八日はお釈迦の誕生日、若葉が涼しげに茂りはじめ、お釈迦像に甘茶を注いだりして”「世のあわれも人恋しさもまされ」と誰かも仰せられていたが”と語る法師の心に添い、いかにももっとも、とうなづきはするが、端午の節句に軒場に吊るす菖蒲の葉束、六月朔日の夏越祓や七夕まつり、戦前のころまで、まだ連綿と続いていた日本の季節ごとのしきたりも、今はほとんど消えてゆき、代わって人間の暮らしの営みに根差した海外の祭りに習う風潮があたらしく、ふえてきているようだ。

 ともあれ”冬枯れのけしきこそ、秋にはをさをさ劣るまじけれ”というのは、今では京をはじめとして、地方の山里でこそ、味わう風景と言えるかもしれない。紅葉の見事さもさることながら、”霜いと白うおける朝、遣り水より煙の立つこそをかしけれ”…”すさまじきものにして見る人もなき月の寒けく澄める20日余りの空”など、孤独な独り居の住まいから眺める初冬の季節の気配、こうして歳も暮れゆき、”かくて明け行く空のけしき”、京の街々も、”昨日に変わりたるとは見えぬども…松立てわたして、はなやかにうれしげなるこそ、またあわれなれ”としめくくられるのである。日本人がいとなんできたその昔の一年がここにいとも美しい筆致で描かれ、懐かしさもひとしおである。

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