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シン・ウルトラマン感想(乱文)

※5/30 誤字脱字勘違いを訂正しました

注意

※多大なネタバレを含みます。
※特撮作品というものに一切触れてこなかった上にそんなに映画とか見ないオタクの妄言です。文体は偉そうですが、「こうじゃないかな?」くらいの気持ちです。
※他作品との比較が出てきますが、双方の作品を貶める意図は一切ございません。また、どちらが良いというつもりもありません。
※超乱文注意。ウワーって書いたやつを見られるようにちょこちょこ手直ししただけです。
※この感想が正義というつもりはないので、皆さんが抱いた作品の感想を大切にしてください……反論異論は大いにアリだと思います。



ストーリーはベタ、でも群像劇としては素晴らしい

スポットがあたる登場人物は全部で5人。ウルトラマン(神永)、浅見、田村、滝、船縁の禍特対のメンバー。この映画はこの5人の話を2時間やる。

ストーリーは至ってシンプルで、禍威獣(いわゆる怪獣)が出る→ウルトラマンが倒す→最初のボスが出る→倒す→中ボスが出る→倒す→ラスボスが出る→倒すという、RPGを踏襲したかのような流れである。それ故に、難解な専門用語や理屈などをすっ飛ばしても理解が及ぶ。

作中で「なぜ日本にばかり禍威獣が出るのか」という謎についての詳細な言及はない。あるのは「禍威獣は地球に放置された生命兵器」「人間の自然破壊により目覚めた」ことくらい。エヴァでお馴染みの庵野監督が関わっている以上どこかしらにヒントはある気がするのだが、初見では正直よくわからなかった。

よくわからない、というのは、ストーリーも同じである。先程「シンプル」で「流れは分かりやすい」と言ったばかりだが、それはあくまでも流れの話。話の内容は「なぜそうなる?」の連続で、ストーリーを一回で全て理解するのは難しい。だから初見でストーリーを追おうとした私は、「でっかいのドーン!」「宇宙規模でバーン!」を楽しむ作品なのかな……という思考停止に陥りかけた。

しかしこの作品はそうではないと私は考える。この作品は群像劇だ。主人公は存在するが、しかしその主人公の存在感はかなり薄い。というのも、そもそもこの主人公が画面に映る時間が短いのである。ウルトラマンに変身して敵を倒したあとは、すぐに禍特対のメンバーにカメラが回される。

私はウルトラマンを始め特撮作品というものに一切触れてこなかったため、過去の特撮作品がどういったものなのかは知らない。ただ、この群像劇形式を取る作品というのは新鮮だった。主人公にむやみにスポットライトを当てずに、主人公を取り巻く環境の変化に重きを置く。これにより、観客は主人公である神永の内面を把握することが難しくなり、逆に「中身がウルトラマンになり、半分人間ではなくなった神永」というものの異色さを理解できる。


キャラクター性の強さ

群像劇だと思ったのは、禍特対のメンバーの濃さもある。

複数人が集まりチームを作る作品として私が最初に思い付いたのが「プロメア」だった(アニメ作品と比べるのもどうかとは思うのだが、私自身が実写映画というものに造詣が深くないので、ご容赦願いたい)。「プロメア」はTRIGGERの映画作品であり、主人公はバーニングレスキューと呼ばれる、いわゆる消防士として登場する。バーニングレスキューの面々はTRIGGER作品らしく印象に残りやすいビジュアルやキャラクターをしているのだが、「プロメア」という作品は群像劇ではない。主人公にスポットが大きく当たる代わりに、彼らはあくまで説明キャラとして落ち着いている。

一方でこの作品は、最初から神永という主人公にスポットを当てる気がない。「電気を食べて放電してくる禍威獣」に対し、生物学者の船縁と物理学者の滝が色々と見解を述べ、リーダーである田村が意見を総括。しかし主人公である神永はといえば、逃げ遅れた小学生を救助しに行く以外では大きな特徴がない。初見では彼が主人公だとはわからなかったくらいだ。

船縁と滝のキャラは濃い。サブキャラであるにも関わらず、序盤ですでに立ち位置が確立される。船縁はその禍威獣がどんな生体かを調べ上げることに余念がなく、知識が豊富なムードメーカー。滝はアイデアマンであり、物理学に造詣が深い。そして彼の脳内を具現化したかのような彼のスペースは、作中で「オタクらしい」と表される。

もう一人の主人公でありヒロインでもある浅見も濃い。「新しく配属された新人」であれば自身の置かれた状況に大なり小なり動揺するものだと思うのだが、それがない。まるで昔から禍特対にいたかのように、彼女は落ち着いている。一瞬「神永の方が新人だっけ?」と疑ってしまうほどだ。

リーダーの田村はそんなにキャラが濃くない。しかし多大なるリーダーシップを発揮し、最後まで決して印象が薄くなることなく、禍特対総員の信頼を得続ける。


サブキャラが持つ存在感と意味

この中で、私の中で特に印象に残ったのが滝だ。滝は最初の会議の時にいくつかの案を出す。他の人物はそれを精査し、あくまで客観的に却下したり部分的に採用したりする。意見を否定されても腐らないところを見ると、滝は禍特対のアイデアマンとして全体に認められているのが分かる。

彼のアイデアは決して子供が考えたような「思いつき」ではない。過去上手く行った事例や自身の計算により案を考え、自分の中で完全に噛み砕く前に全体に提案する。彼は頭がいい、というのが、最初期に描かれる。

そんな彼は、地球外生物と接触したことにより、次第に知識や常識が否定されていく。これが普通の人間であれば「そんなに落ち込まんでもええやん」くらいで片付くのだが、彼の場合はそうはいかない。滝は地球上では普通の人間とはいえない優れた頭脳と知識を持つ存在であり、彼自身も客観的事実としてそれを認知している。故に彼の知識や常識が否定されるということは、彼自身の否定であると同時に、人類の叡知の否定に繋がるのである。

滝という一人の人間に「天才」というタグをつけるために、この作品は滝の回りに様々な小道具を置く。登場人物たちと同じくらいの頻度で登場する重要アイテムとして、ホワイトボードがある。このホワイトボードには、滝が書いたと思われる計算式がずらりと並んでいる。特に第二のボスが登場したシーンにおいては、四方をホワイトボードに囲まれた部屋で会議をしている。そこにも計算式が所狭しと書き連ねられている。

ホワイトボードは滝の重要アイテムである。滝には「オタク」というタグも付けられており、その象徴は部屋の後ろに飾られた大量のパソコン機械とフィギュアたちだ。それらは彼の趣味嗜好を表すものであり、つまるところ彼の脳内そのものなのである。その中に、ホワイトボードも含まれる。

この作品において、滝はかなり重要なポジションを任せられる。すなわち、観客の感情移入先だ。

画面の中にあまり出てこない主人公・神永に感情移入するには、映画館に何度も足を運び、最初から神永に注意をしっかりと向けなければならない。第二主人公の浅見にも感情移入できるシーンはあるのだが、肝心の神永に感情移入がしづらい以上、そのヒロインポジションの浅見がなぜそんなに神永に拘るのかが地味に分かりづらい。

その一方、滝や船縁といったキャラクターは、映画内でほぼ描かれない「一般人」の立ち位置にある。もちろん彼らは決して一般人などではなく、学者として高い知識と考察力を持つ存在である。しかし彼らの知識がより高度な文明に否定されることで、「人類の否定」が起こる。これを分かりやすくするのがホワイトボードの役割だ。

ホワイトボードには、常人が理解しにくい数式がびっしりと書いてある。これは滝の頭の中であると同時に「人類が築いてきた知識」のメタファーである。その根拠のひとつとして、第二のボス・メフィラスは、四方をこのホワイトボードに囲まれた部屋を面白そうに眺めたあと、そこから外に出て、圧倒的な科学力を見せつける。これは「自分は人類の知識では捉えられない存在である」という意味であると考えられる。

映画を見ている観客はこのホワイトボードの数式の意味は分からずとも「なにかすごいことが書いてあるホワイトボード」だとは理解できる。そしてそれだけのことをしても分からない、ということがどれだけ大変なことかを漠然と理解する。

また、ある禍威獣を目の前にした滝の発言のひとつに「あいつもめちゃくちゃヤバい光線を出すんじゃ」というようなものがある。「ヤバい光線」が何なのかの説明は一切ないが、その前後に「放射線」というキーワードがあることで、観客は「なんかヤバい光線なんだな」と、こちらも漠然と理解する。滝やホワイトボードには、観客と映画を繋ぐ役割があるのだ。

物語の終盤、序盤でぽんぽんとアイデアを出していた滝が、危機に対して「ウルトラマンに全て任せるしかない」という結論を出す。それはある種の思考放棄であり、ともすればただのヤケクソにしか見えない。しかしここまでで滝の脳内や映画での役割を丁寧に描いていたお陰で、彼の絶望は観客の絶望とイコールになる。階段の下で悔しがる滝の姿は、事情を知る全ての人々の象徴である。

終盤での滝は、いわば人類の「絶望」を表すキャラクターである。それに相対する存在として描かれているのが船縁だ。船縁が「希望」として描かれているのは、作中の台詞でも分かるだろう。

船縁はどんな状況においても、絶望するより希望を抱くキャラクターであった。序盤から彼女は、人類ではどうしようもないような禍威獣を前に「これどういう仕組みなんだろう?」と、子供のような好奇心を抱いている。滝が人類の「知識」や「常識」の象徴だとするならば、彼女は人類の「好奇心」や「知識欲」の象徴であり、それは「人類に対する希望」に繋がっていく。

禍特対が一時監禁された際、船縁は落ち着くことなくお菓子の山を貪る。そんな彼女を浅見は「ストレスに弱い」と評し、他のメンバーは菓子類に手を付けずじっと静観している絵が映る。そして監禁が解かれた際、船縁だけはお菓子をいくつかひっ掴んで部屋を出る。

このシーンと対照的なのが、ラスボス・ゼットンがウルトラマンにも止められないと分かったときの禍特対のシーンである。大ケガを負った神永と、彼と共にいる浅見。ヘビースモーカーも真っ青な量のタバコを吸う田村。仕事中にも関わらず酒を持ち込む滝。全員が「いつも通り」とは言えない状況下で、船縁だけが平静を保つ。

滝が作中で否定され続ける存在であるとすれば、船縁は肯定され続ける存在である。船縁は自分の意見や常識が否定されても気にしない。それどころか「未知」に「好奇心」で対抗する存在である。これこそが今作の「希望」に繋がる。

終盤、自棄になった滝と船縁のシーンは素晴らしい。神永が残したUSBメモリ(希望)を、船縁が滝に指し示す。「希望」から「絶望」に、希望の種が受け渡される。その瞬間、滝から「絶望」のタグが剥がれ落ち、残るのは「人類」というタグだけになる。

映画中盤までは滝も船縁も多弁なキャラクターとして描かれているが、ラストで滝は寡黙になる。明らかに滝の役割が変わる瞬間だ。彼は「希望」のメタファーとして確立され、黙々とホワイトボードに計算式を書き連ねる。

ここでもホワイトボードが出てくる。このホワイトボードも、人類の叡知の象徴であると同時に滝の脳内を示す。滝がリアルタイムで計算式を書くことで、人類の叡知そのものが更新されていくことも表していると考えられる。

この作品が群像劇だと思ったのは、このシーンがあったからだ。滝と船縁はポジションこそ対称的だが、キャラクターが正反対であるわけではない。むしろ、禍特対において異色を放つ神永や新人の浅見に対して「サブキャラとして正しい反応」を行う同族でもある。「希望」と「絶望」が、正反対でありながら似たものであるというテーマ。これだけで一本作品ができそうなテーマを受け持つのは、主人公たちではなくサブキャラの彼らであった。

この作品は、神永や浅見の物語であると同時に、滝という「一般人の成長物語」でもあった。

ラストシーンにて、神永は恐らくウルトラマンとしての力を失っている。ウルトラマンとして活躍した記憶があるのかどうかすらも定かではない。このシーンをもって「喪失の物語」とするか、群像劇の結論として「希望の物語」とするか。これは個人の考えによるだろう。私は後者であった。


総括

正直なところ神永の内面に切り込むシーンがあまりに少なく、王道である「主人公への感情移入」はしづらい。一応、神永の独白や他の地球外生命体との会話の中でうかがい知ることはできるのだが、逆に説明的すぎて、まるで物語のあらすじをなぞられているような気にもなった。彼を理解するにはもう一周、今度は最初から彼を注意深く見ながら鑑賞する必要があるだろう。
その一方でサブキャラのキャラクター付けは見事であり、難解な用語に説明がなくとも流れを把握するのに一役買っていた。また小道具などを使うことでサブキャラの心情を細かに表し、それにより主人公の存在感をアピールする手法はとても面白かった。

「シン・ウルトラマン」を初めて見る人は、ストーリーを理解しようとするのではなく、好きなキャラクターに注目して楽しむのが正解だと思う。ストーリーは流れこそ分かりやすいが、細かいところを気にし出すと恐らく一回では分からない。まずは楽しむためにも、誰か一人に焦点を当てるのが面白いだろう。

見終わったあとの私の正直な感想は「……なるほど??」だった。元が子供向け特撮作品だからか、ご都合主義は否めない。ストーリーの流れは、良く言えばベタ、悪く言えばチープだ。しかし深く掘り下げようと思えばかなり深く掘り下げられるストーリーとキャラクターは、特撮作品代表としての貫禄を見せつけられた。
完全に理解したい人は、複数回通って損はないと思う。そんな作品だった。

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