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魔法の壷

「ぶん殴ってやりたい」
 私はT氏への不満を漏らさずぶちまけました。

「ことある毎に嫌みばかり言ってくるのです。しかも私にだけ目の敵のように言ってきます。他の人に対しては善人顔でどうやらいい人で通っていうようです。それが余計に腹立たしい。顔を見るのも嫌になってきて何かの拍子にかーっとなって殺してしまうかもしれません」

「それはよくないですね。そういう不可解な人というのは、どこに行ってもいるものです。遅かれ早かれそういう人は消えていきます。あなたが直接手を下せば、新たな悲しみとまた別の恨みを買うことになります。それは損というものです。何もしなくともいずれ消えていくのだから、あなたがすべきことは関わらないようにすることです」

 女は親身になって私の相談に乗ってくれました。
 そして、私の前に1つの壷を置きました。見た感じは何の変哲もないありふれた壷のようでした。

「あなたに必要なのはこの壷です。これを家の寝室に置くことで、すべての不幸からあなたを守ってくれるでしょう」
 壷の値段は30万円ということでした。

「なかなか高価なものですね。私の稼ぎだと……」

「まあ冷静に考えてみてください。この小さな壷があなたを幸福へと導いてくれることが約束されています。普通ならいくらお金を積んでも手に入るものではありませんよ。それに一生で割ると考えれば、果たして本当に高いと言い切れますか? 今日を逃したらあなたの幸福は逃げていってしまうかもしれませんね」

「確かにそうですね。考えようですね」

「わかっていただけましたか。どうやら私の目に狂いはありません。あなたは幸福になる資格をお持ちだ」

「決めました。今日持って帰ります!」

「おめでとうございます! 正しい決断ですよ」

「ありがとうございます」

「この壷は生き物と同じです。朝晩欠かさず水を遣ってください」

 私は壷を持ち帰り、女の言う通りに朝晩水を遣りました。T氏の言葉はあまり気にしないように、自分の仕事のみに集中するようにしました。心なしかT氏の嫌みも少なくなったような気がしました。時折、壷が鳴いたような気がしてはっと目が覚めました。それでなくても私の眠りは浅いのです。だんだんと寝坊をするようになり、遅刻を繰り返すようになりました。壷は深夜になるとはっきりと鳴くようになり、水を遣って少しさすっていると落ち着くようになりました。私は壷のことが気になって、完全に寝不足となっていました。1週間続けて遅刻するとついに会社を首になりました。仕事そのものは上手くいっていただけに、少し残念な気持ちがしました。私の人生はとても順調とは言えませんでした。

「そんなことで首だなんてブラック企業じゃないですか!」

「ああ、そうかもしれません」

「おめでとうございます! あなたがステップアップするための絶好の機会が訪れました。普通の人はなかなか経験できないことじゃないですか」

「はあ、そうですよね」

「壷がなかったらどんな悲惨なことになっていたでしょう」

「ありがとうございます」

 新しい仕事はなかなか見つけることができませんでした。何でもよければなくもなかったが、今までの経験を生かせるものとなると急に道が狭まるのでした。壷は夜毎鳴きが酷く、一日として安らかに眠ることができませんでした。将来について漠然とした不安の中をコンビニに立ち寄ろうと歩いていた時の信号はいつの間にか赤になっていました。気がついた時には右から曲がってきたワゴンにはねられて、私は全治3ヶ月の大怪我を負いました。

「よかったですね!」
 女は満面の笑みを浮かべていました。

「いいわけないじゃないですか!」

「いえいえ。普通だったら当然お亡くなりになってましたよ。こうして今ここにある奇跡が、壷の御利益でなければいったい何でしょう。これからあなたは素敵な出会いを経験することもありますし、とびきり美味しいものをいただくこともできます。だから感謝の心を持たなければなりません」

「ありがとうございます」
 私は気持ちを切り替えて家に帰ることができました。

 眠れない夜は続きました。将来への不安、壷の鳴き声に挟まれて逃げ場がありませんでした。今では水を遣ってさすったとしてもすぐにまた鳴き出すようになっていました。きっと何かが悪化しているのだと思えました。眠れない夜に何かに打ち込んでみるというアイデアもありました。けれども、何か生産的なことをするには集中力を保てません。遠い宇宙に住む知的生命体のこと、記憶もおぼろげなほど幼い日のこと、現在地からただ離れたくて、私は枕を抱きしめながら妄想的な思考にかけていました。

「助けて!」

 とうとう壷は鳴くだけにとどまらず、話すようになったのです。私を幸福へと導いてくれる高価な(有り難い)壷でした。

「助けて!」

「うるさい!」

 それは一瞬の衝動でした。私は自らの手で幸福の壷をかち割ってしまったのでした。残骸は寝室の隅々にまで散りました。そして、彼女が現れたのです。

「この時を待っていました」

「あなたはいったい何なんです?」

「私は捕らわれの王女ララ」
 鳴いていたのは助けを求めるサインだったようです。

「ずっとここにいたのですか?」
 ずっと独りだと思っていたので、私は奇妙な恥ずかしさを覚えました。

「さあ行きましょう! あの魔女の元へ」
 

 ララは私を伴って魔女の館へ乗り込みました。

「自分で自分の幸せを壊したか。愚かな真似をしましたね」

「お前は人の幸せを弄んでるだけだ!」

 ララは迷いなく魔女の胸を撃ちました。光線をあびた魔女は溶けて水になり、水が集まるとカブトムシの姿になりました。

「あれが真の姿か……」

「元はと言えば彼女も被害者だったのです」

 私はしばらくの間、現実を受け入れることができませんでした。王女ララは落ち着いたら王国へ私を招待し、大層な褒美を与えると約束しました。半年が過ぎた今はまだ連絡がありません。振り返れば恐ろしい壷でした。おかげで失ったものも少なくはありません。けれども、ララが私の手によって助け出される運命だったとしたら、私はあの時の衝動を誇りに思います。
 それにしてもあんな高額なものを簡単に買ってしまうなんて! 一度信じてしまえば、どんなことでも信じられる。信念とは、恐ろしいものなのかもしれません。これからは物に頼らず自分を信じて生きていこうと思います。そして、この経験を私は私のように弱い誰かのために話すことに決めました。

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眠れない夜に

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