言葉が届く人

ことの順逆を間違えてはいけない。より大切なのは、「言葉が届く」ということであり、「つじつまのあったことをしゃべる」ことではない。今日の初等中等教育では「自分の意見をはっきり口にする」ということは推奨されているし、技術的な訓練もなされているようだけれど、残念ながら、「自分の意見」は「はっきりしているだけでは、聴き手に届かない」というもっとも大切なことは教えられていないようである。

こう語るのは、武道家の内田樹さんだ。

私の仕事は、トレーニングコーチである。
主に高校生と大学生の部活動をサポートして25年、まさに、選手に「言葉を届ける」のが仕事である。

とは言え、私の言葉が選手、監督、コーチに届く時ばかりではない。
時には、選手に反発され、時にはコーチと言い争いになったこともある。
思いが伝わらず、悔し涙を流したこともある。
もちろん、全ては、自分の力不足であり、未熟さのせいである。

「言葉が届く」
と言えば、私の55年の人生の中で、この人をおいて他にはいない、そんな人がいる。

私の高校野球時代の助監督の吉沢さんだ。
当時、吉沢さんは30代前半だった。
でも、その時から、吉沢さんの言葉は、とんでもなく私の心に届きまくっていた。
なんとも言えない、独特の間、語り口、そして、その説得力、たたずまい。

昨日は野球部OB会の懇親会があり、その最後の挨拶が吉沢さんだった。
吉沢さんの指導を受けたことのないOBもいる中で、そんな彼らさえも、思わず聞き入ってしまう、相変わらずの語り口なのだ。

いったい、この凄さはなんなのだ。
今は、もちろんだが、当時はたかだか30代前半の男だったのに。

“生き様“、それしかない。
もう、吉沢さんという男の生き様が、その言葉の重みになっている、それしか考えられないのだ。

そんな、師を持てた私は幸せモノである。
が、55にもなるのに、相変わらず、吉沢さんのような言葉を届けることは、決してできない。
まあ、挫けそうになる自分もいるが、吉沢さんは昨日、こう言ってくれた。

「そりゃ、人生生きていたら、色々あると思うよ。挫けそうになることもあると思う。でも、挫けないで頑張って欲しい。そして、挫けそうになったら、周りを見渡してご覧、話せる相手が必ずお前たちにはいるはずだから」

もう、この人に、そんなことを言われたら、人生挫けそうな時があっても、頑張るべと思う。
そして、挫けそうな仲間がいたら、声をかけたいと思う。

言葉が届く、そんな人は、なかなかいない。
でも、私は、そんな人が師匠なのである。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?