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十六夜

この夏の連続展覧会の打ち上げの晩、帰り道に、根源的なよろこびと、根源的な哀しみを感じていた。

もともと群れない生き方をしてきたうえ、教えるようになってからは、特定の受講生とつるまないように、仲良くなりすぎないようにしてきた。それは、より多くの時間を過ごした人をどうしても贔屓目で見てしまいがちだから。

それゆえ、講義のあと受講生と飲食に行ったりすることはほぼゼロ。彼らのSNSもフォローしない(教える前から知っていた人は除く)。いいねもしない。あの人にはいいねしたのになんで私には、となってほしくないから。

その結果、たぶん一人ひとりにおなじくらいの愛情とリスペクトを持って接することができていると思う。反面、ずっと孤独だ。

ところがこの夏、ギャラリストの原田さんの声かけで、私の講座きっかけで知り合い、我々に共感した人たちが、とてつもなくおもしろいものをつくりだした。そんな場が生まれたことのありがたさ、そして、そこで集った者どうしが、目の前のいくつものテーブルで笑顔で語り合っている光景の美しさ。

人は一人では生きられない。

つながれない私が、彼らとつながれたように感じた時間だった。

そのよろこびを感じながら、あいさつもせずそっと店を出た。

道すがら、ブルームーン翌夜の煌月が見えた。十六夜。満月よりも少しだけ憂いを帯びて見えた。

写真を撮ってあの人に贈ったらよろこんでくれるだろうか、近いうちに会いに来てくれるだろうかなどと考えながら、その青白い光を見つめていたら、ふと人はどこまでいっても一人であることを思い出し、深いため息をついたのだった。

思えば、人生も折り返しを過ぎた、いわば十六夜の年齢だ。もしかしたら十八夜かもしれないし、予見できていないだけで二十数夜かもしれない。若い頃の曲を弾こうが自分をどれだけ大きく見せようが、上弦も満月も過ぎているのである。

世阿弥は、年齢に応じた「花」があると言った。十六夜は十六夜にしかない美しさがあるという。ただし、齢に応じた稽古を積めば。

孤独とよろこび、あきらめと希望が、渾然一体となって押し寄せた夜だった。

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