糸くずのベル

 CDラックを眺めながら、俺は自分が好きな音楽は結局何なのだろうかと考えた。プログレッシブ・ロックが父の部屋ではいつも流れていて、母の部屋では「たま」がいつも流れていた。
 沖合に出て行った漁船は熊本市から1249km先の沖合で暗礁に乗り上げ、転覆してしまった。そこに俺の友人たちが乗っていた。28年会っていなかった海洋学院の同級生を友人と呼んでいいかはわからないが、暗礁の上で友人たちは、絶対に自分たちが犯さないであろう暗礁に乗り上げるという初歩的なミスを確かに起こしてしまったことに絶望して、頭は真っ白になり、何も考えることができず、全員が同じように口を開けたまま死んでしまった。深夜の海だった。あたりには島も何もなく、信じがたいほどの暗さだけがそこにあった。
 破壊とよく似ているギブソンのフライングVのギターを持ち上げて、台所へ行った。そうして薬缶に水を満たして、ガスコンロの上に乗せ、つまみをめいいっぱい回した。燃え上がる青白い炎とは対照的に、カチカチと軽い音が鳴った。そのまま俺はギターを鳴らす。もちろん、シールドは繋がっていないから、弦とピックがぶつかる音は増幅されず、小さくて野暮ったい音が鳴るだけだ。それでも俺はボリュームをフルテンまでねじり上げ、炎をマイクに見立てるようにして、台所の中で叫んだ。その時間はとても長く続いた。
 暴れようとした。だが台所はギターと一緒に入るには狭すぎた。俺はムカシトカゲのように小さく、素早くなれたらいいのにと思った。
 街路樹は物憂げだ。影は音もなく伸びてゆく。ほころびた糸くずがアスファルトの表面に落ちている。あたりを見回すと、それと似たようなものがたくさん落ちているのがわかる。黒く拙い魚のような形の糸くずは、ストライプのスリムなスーツを着た若い男の革靴の歩みの下敷きになって、革靴の中に溶け込んでしまったかのように貼り付いて、駅の方へともに歩いて行った。白くて花のように広がった糸くずは、飲食店の制服を着たままの太った中年女性のサンダルに踏まれたかと思うと、空中に舞い上がり、通りかかった自動車の……おそらく、ホンダのフィットか、トヨタのラクティスだと思うが、そこで巻き起こった小さなつむじ風に強く煽られて、歩道から車道へ強引に運ばれ、間もなく疾走してきた2tトラックにぶつかって粉々になってしまった、
 トラックに乗っていたのは一匹の烏賊で、10本あるという足や内臓の詰まった頭よりも、実際に見るとその巨大な目玉が強くこちらを見つめているのが印象的だった。彼は何度も自動車事故を起こしていて、一度は過失が認められて府中の刑務所に入ったこともある。薄暗い独房に入れられて、彼は毎日夜になると壁に歯を当てて絵を書き残そうとしたり、自分の足でマフラーを編もうとしたり、内臓を体の外へ取り出してみようとしたりした。何度も精神鑑定を受けさせられたが、彼にとって全ては論理的で、それらの行動は悪ふざけでもなんでもなく、罪を犯してしまったことに対する懺悔だった。自分のためでも、トラックではねてしまった、黄色い帽子をすましたように浅くかぶり、つやつや光る真っ赤な新しいランドセルを背負った少女のためでもなかった。彼は概念と夢と住宅街の常識との狭間にその巨大な頭を持たせかけていた。
 事故の後、少女は奇跡的に息を吹き返したが、事後の傷が原因で、病的なほどのマゾヒストになってしまった。彼女は仰向けに寝転がったまま、兄のトレーニング用のダンベルを両手でつかんで真上に放り投げ、それをわざと自分の脱力した鳩尾に落としたり、陶磁器のように清潔な家を出て路上で寝泊まりし、見知らぬ通行人に両手をついて懇願したり、図工室にある千枚通しで自分の爪を全て剥がしてしまったりしたという。
 糸くずがそうして消えたり、糸くずでなくなったりしていった果てに、運悪く残ってしまった最後の糸くずがあった。濃い青色で、何かの下敷きになったのか、やや平べったくなっている以外は、繊維の密度も高く、丈夫で美しい糸くずだった。ベルという名前をつけてやろうと思う。
 ベルは暗礁に乗り上げた俺の友人たちのことを知っていた。もともと、ベルは海洋学院の校旗に使用されていたのだ。友人たちのことだけではない、海洋学院にやってきた全ての生徒と教員の名前と風貌を覚えていた。中には性格や好きな植物や、ちょっとした趣味のことまで覚えている生徒もいた。ベルはその体を横たえたまま、歩道と車道の間にある、背が低くて葉の丸い植物が据えられている植え込みに落ちていた。カーテンの繊維とともにこの歩道へやってきたが、もう仲間たちがどこへ行ったのか、決して知ることはないのであろうことを、ベルは少しずつ感じはじめていた。身をよじり、どうにか日の当たる場所へ出ようと思うのだが、彼の体に筋肉はなく、ただその場で、土になるのを待つしかないのだった。
 指先でCDの背をなぞる。ピアノの鍵盤に指の腹を当てて音階を上り下りするように。誰にも知られないように、薔薇の花束を買いに行かなければならない。裏切られる前に、裏切り続けなければならないのだと知る。今日よりも、明日の弾薬の方が罪深い。だが、信じてゆくほかない。
 玄関のベルが鳴らされる。約束をしていた女がやってくる。半年の間、安っぽい結婚相談所に通いつめて、ようやく見つけた美しい女。おそらく彼女は、自分の進むべき国道の番号まで熟知しているか、道というものの存在自体を知らない無垢で野生的な少女なのか、どちらかだ。
 公園のゴミ籠の底の方に眠っていたオレンジジュースの空き缶の中に、一匹の蝿が住んでいた。腐乱した人工甘味料のむせかえるような匂いの中で、彼はじっと身を隠していた。彼がベルと出会ったのは全くの偶然だった。まだ6月だというのに、猛暑に見舞われた第3木曜日。蝿はどうしても自分の住処が暑くて仕方がないので、どこか涼しい場所を探して、街を飛び回っていた。そうしてやってきた歩道沿いの植え込みの陰で、複眼の端に捉えた美しく深い色に心を奪われたのだ。蝿は精一杯、ゆったりとした動きでベルに近づき、紳士のように前足を組んでお辞儀をした。ベルはそれを、繊維の一つ一つで感知し、彼が愛すべき勤勉な裏切り者であると思った。ベルは、凡人が視覚と聴覚で会話するのと同じ要領で、時間の歪みと色の波長を巧みに操り、蝿もまたそれを感じて、羽の振動と前足を活用して波長を調節し、会話をした。
ベルは広大な知識を持っているが、同時に慢性的な躁鬱に悩まされてもいた。蝿はベルの壮大すぎる話や世界に対する深すぎる造詣、卓越した風景観察から生み出される歪で不可解なイメージなど全てに圧倒され、心を震わせた。蝿は、言葉を選ぶわけにはいかなかった。ただただ、「エクセレント」としか言えなかった。ベルは美しかった。繊維の先から先まで、どこも盾なく結ばれていた。
 俺はその青い色を思い出している。アパートにやってきた女の体には無数の青あざがあった。ただの打撲ではない、何度もなんども殴られて、何度もなんども内出血してできるあざだった。どす黒い赤と深い青が混ざってマーブル模様を作っている。女は俺に丁寧にお辞儀をした。俺はフライングVのギターを抱えたまま立ち尽くしていた。
 どんな言葉も、音楽も、彼女を救うには足りなさすぎると思った。女は顔をすっとあげた。穏やかな微笑みの裏側に、何が強い決心のようなものを感じた。だがそこにどんな信念が眠っているのか、想像もできなかった。顔には傷一つないのが、さらに不気味さを増大させた。だが女は美しかった。言葉を紡げないままいた俺に、彼女は透きとおるような桃色の唇を開いた。どうしても、俺に会いたかったのだといった。顔も名前も知らない俺に、彼女は期待していたのだ。彼女はひどく重そうなリュックサックを背中から降ろして、正座したままの膝にそれを載せた。
「見てください」彼女はリュックサックを開けて、俺に中身を見せてくれた。ダンベルがいくつも入っていた。他にも棘のある鞭と、ボールギャグの上で宝石のように煌めいて見えるのはメリケンサックだった。傘だと思っていた細長い布の包みは、硬式野球用の金属バットだった。
 彼女の目は真っすぐに俺を見つめていた。

#散文

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