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[笹蟹薫の食生活]

笹蟹薫は手早く化粧をし終えたアパートの洗面台の鏡の前でどうやら少し太ってしまったようだと軽いため息をついた。

「今日の飲み会は少し食べるのを控えなきゃ。」

小さく独り言を言ったあと、鏡に映った、薄化粧でも匂い立つように美しい自分の顔と長く艶やかな自分の髪をあらためて満足気に眺め、気を取り直してアパートの戸を開けて暗くなりはじめた街に出掛けていった。

少し遅れて到着したその飲み会は、久しぶりではあったが、古くからの知り合いが集う気楽なものだった。自然お酒も進む。


薫は太るのを気にして並べられた皿にはほとんど手をつけなかった。

珍しく顔を出した後輩の隆生が隣に座り、話がはずみ、酒がすすんだ。

隆生くん、しばらくみないあいだにずいぶんいい男になってる。

それになんだか、今日はお酒の勧め方がとても上手だわ。

ぼんやりとそんなことを考えながら、薫は自分の身体の体温の上昇を感じていた。

嫌だ私、ちょっと飲みすぎた。

会がお開きになって外に出ると
冬の夜の冷たい空気に包まれて、
薫は飲みすぎたことを少し反省した。

薫は独身だが、既婚者の多いこの集まりでは皆一次会でお開きになるのが決まりであった。

タクシー乗り場まで歩いていると、隆生が後から追いかけて来た。

「薫さん。同じ方向だ。タクシー少ないし、乗り合わせましょう。」

「あら?私、隆生に住んでる場所教えたかしら?」

薫は少し疑問に思ったけれど、酔っていたし喋ったかもしれないとも思った。どうでも良いことだ。

隆生はヒール高めのパンプスを履いた薫の歩みにあわせて、息をあわせるように横にピッタリついて歩いてくる。白い息をはずませながら会話が途切れない。

ただの可愛い後輩だ。

飲み会の席で、一瞬ではあるが
隆生のことを男としてみてしまった自分が笑える。

ビルに囲まれた空にも、冬の星々が煌めいて、薫はとても解放的な気持ちになった。

人類皆兄弟みたいな感じ。途切れない会話を楽しみながら何気なく隆生の手をとった。


しまった。


隆生はまた会話を途切らせることなしに、手を強く握り返してきた。



薫は、浅はかな自分の行動を呪った。

同じ強さで握り返しながら、どうか隆生がこれを友情の証であると正しく解釈してくれますようにと祈った。

静まりかえったタクシーは、隆生の主張で先に薫のアパートへと向かう。

タクシーに乗り込む時に離した薫の手を隆生の手はまた追いかけてきて、逃がさないかのように後部シートの上に押さえつけてきた。

「なんかいい香りがするな。」
隆生がボソッといった。

「そう?気のせいじゃない?」
薫はそう口にしながらまずいことになっているのを実感した。

薫は香水は使わない。

しばらくすると自分の住む安アパートの前にタクシーは停まった。
薫が降りると、案の定後から隆生が降りてきた。

アパートの前にはごちゃごちゃいろんなものが落ちている。洋服や傘、空き缶、なんでもだ。

「ちょっと、トイレかしてくれないかな。」

隆生はそんなものには目もくれず
薫に言ってよこした。

「それは断るわ。片付いてないもの。そのへんでしてよ。私みたりなんかしないから。」

冗談まじりにそういった。片付いてないないのは本当だ。急に部屋にあがろうなんてそんなのムリムリ。

隆生は折れなかった。
「ダメだ。部屋に入れてくれ。嫌っていっても今日はなんとしても入るって決めてきたんだ。」

「………。」

薫は観念した。夜遅くにアパートの前で騒がれるのはごめんだ。

「わかったわ。ついてきて。でも碌なことにはならないわ。」

薫はアパートの玄関扉の鍵を回しながら言った。

「私は警告したわよ?どんなことになっても知らないから。」

隆生はこくりと頷くと黙って薫の開けたドアに身を滑らせた。



部屋は一面真っ白な世界だった。
家具も何もない。
白い繊維で覆われた部屋の真ん中には、大きな白いハンモックがただ一つ存在していた。


絶句する隆生を他所に、薫は着ていた服を全て地面に脱ぎ捨てて一糸纏わぬ姿となり、振り返るようにハンモックに腰掛けた。

部屋の異様な様子と薫の美しい乳房に目を奪われた隆生は黙ったままだ。

いつのまにか甘い香りが部屋に充満している。

「さぁ、はじめましょうか。」
「悪く思わないでね。私はあんまり気は進まなかったのよ。」

薫はそういうと
低く魅惑的な声で歌を歌い始めた。
ハンモックがそれにあわせて揺れる。
薫の乳房も。

一体何が起きているのだ。
頭がおかしくなりそうだ。
隆生は全く動けない。
目は乳房に吸い寄せられている。
柔らかな表情のピンクの乳頭が隆生のことをまだまだ子どもだと笑っているかのようだ。

頭がぼんやりする。

歌は続いた。

そして、部屋の甘い香りがさらに一瞬濃くなったかと思うと、薫の口から歌と共に白い糸が飛び出してきて、隆生を拘束しはじめた。

歌のスピードがどんどん上がっていくにつれ繰り出される糸の量も増えていく。

あっという間に隆生は全身包まれて、まゆの中に入ってしまった。

「ゆっくりお眠りなさい。
さようなら。」
歌を終えた薫はそういうと
最後の仕上げにかかった。

「夜明け前に始末しなくちゃ。」

出来上がったまゆにストローを挿すと、ドロドロになった液体を丹念に吸い上げた。

ベランダの窓を開けて、残ったまゆの殻と、中から出てきた隆生の洋服を、外に捨てながら薫はつぶやいた。

「あーあ。今日の飲み会は少し食べるのを控えなきゃって思ってたのにな。」

おしまい



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