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津軽の奇人・漫遊仙人

白衣に頭巾。法螺貝に錫杖。オーソドックスな山伏スタイルながら、漫遊仙人の格好は明らかに異様だ。肩にかける結袈裟のかわりに「津軽岩木スカイライン」と書かれたタスキをかけている。
彼は小山内漫遊。津軽では「漫遊仙人」という名で知られた山伏。…それも、明らかなインチキ山伏だ。

仙人は祭りごとがあれば呼ばれて無くても飛んでくる。祭が盛り上がった最高潮にやってきて、出鱈目な九字を切って説法を叫び、ジョンガラ節を歌う。なにもかもが、正式な修行を積んだ山伏とは明らかに違う。沸き立った観衆は、彼に投げ銭を惜しみなく浴びせる。賽銭を懐に入れた仙人は酒樽でもてなされ、飲んで飲んで飲みまくる。最終的には神社の隅か公園のベンチで寝転んで、夜明けと同時に住まいの観音堂に帰っていく。
日本人離れした彫りの深い顔立ちに、異様な眼光の白髪頭の老人は、痩せこけてるくせに溢れんばかりの精力を体中から発散している。インチキ山伏なのに、どの山伏よりも山伏らしいオーラをはなつ。この男は、いったい何者なのか?

明治29年(1896)、青森県北津軽郡金木町嘉瀬に生まれる。本名は小山内嘉七郎。太宰治の生家・金木から津軽鉄道でひとつ隣駅だ。
家業は何をやっていたのか定かではない。おそらく農家だろうが、10代後半の小山内嘉七郎は、村を捨てて千島・樺太に出稼ぎに行った。オットセイやカワウソや白ネズミなどの毛皮を買い付ける商船に乗って、オホーツク沿岸を回ってロシア極東をまたにかけた。

大正6年(1917)、ロシア革命が勃発すると、小山内嘉七郎に大きな転機がおとずれる。なんと日本軍の情報部にスパイとしてスカウトされたのだ。小説のような展開だが、事実である。彫りの深い風貌や、言語に対する音感、果断な行動力などが評価されたのだろう。田舎の純朴な青年らしく、ただ国家のお役にたつことに喜び燃える小山内嘉七郎は、この申し出を受け入れる。そのときに東郷平八郎から「大和魂」と書かれた色紙をもらったことを、後年よく人々に自慢していたという。残念ながらこの色紙は、後に逸失してしまったようだが…。
そして大正8年(1919)ごろから、ロシアパルチザンの情報をあつめるためにヤクーツクに潜入する。この数年間が、小山内嘉七郎の人生を大きく帰ることになる。

同時期の日本は大正デモクラシーの盛り上がりで、大杉栄ら社会主義団体が活躍していた。一方でソビエトロシアでは大正9年(1920)に尼港事件がおこり、シベリア出兵が長引くなど、日ソの関係はますます悪化していった。
そんな中で小山内嘉七郎は、シベリアに暮らすヤクート人の暮らしに魅せられていた。マイナス50度を下回る真冬の世界でもたくましく生きる彼らの姿に感銘を覚え、ヤクート人が行う奇妙な耐寒の秘術を教わったという。
まず両足をひらき、大きく息を吸い込む。力いっぱい跳躍しながら息を吐き出す。着地する前に胸のあたりで両手を交叉させ、左手で右肩、右手で左肩を叩く。これだけで、血の周りがたちまち良くなり、どんな寒さも克服できるようになるという。小山内嘉七郎はこれを「耐寒体操」と名付け、シベリア暮らしの数年間、行い続けた。

そしてシベリア出兵も終わり、大正12年(1923)頃に久々に日本に帰国した小山内嘉七郎は、大化会という右翼団体に入った。社会主義者の国にずっと居た彼にとっては、自分を見出してくれた国家を守ることの方にシンパシーを感じたのだろう。ちょうどこの年、大化会は「大杉栄の骨取り」で有名になったが、この一件には小山内嘉七郎は関与していないという。「ワシはそのころ、山口タツロウという山口組の親分と一緒に大化会にいて、参加してないんだ。まあ、シベリア帰りの新米だったからだろうな」と言っていた。

その後しばらく、小山内嘉七郎がどのような生活を送ったかは明らかでない。おそらく今後新たに分かることもないだろう。しかし戦時下において、ようやく次のステージに進んだ姿が見える。

昭和16年(1941)ごろ、陸軍省、東京市民体育課、渡満開拓幹部訓練所などで、例の「耐寒体操」のパフォーマンスが行われている。昭和18年(1943)には海軍教育局、日本産業報国会、東京市役所、朝日新聞社、警視庁、北大低温室、北部軍司令部などでも披露された。こうした体操のパフォーマンスはかなり良い収入となったようだ。
耐寒体操の指導では、厳寒期にシャツ一枚となり、バケツに氷をいっぱいに入れて、そのバケツに手足を突っ込みながら行う。シベリア生活の能書きをたれながら、30分ほどで全部の氷を溶かして人々を驚かせた後、実技指導にはいる。

実はこの頃、小山内嘉七郎はプロの民謡歌手としても活躍していた。どうも人前で歌ったり何かを披露するのが昔から得意だったようである。今となってはどんな歌手だったのか定かではないが、それなりに人気を博していたようである。
軍隊慰問で旅から旅への生活を送るも、やがて妻子もできて東京に家を買ったりもした。家族のためならと、ますます仕事にのめり込んで、あちこちで歌や体操をしていった。小山内嘉七郎としての人生で、最も幸福な時間であった。
だが残念ながら、戦況はその幸せの続くことを許さなかった。

昭和20年(1945)終戦。
さすがの小山内嘉七郎も歌や体操では食っていけず、あるとき故郷に闇米の買い出しに出かけた。しかし津軽の土を踏んだ途端、どういうわけか、東京に妻子を置いたまま津軽に居着いてしまうのである。
いったいどういう事情によるものか明らかでないが、後年、漫遊仙人が作ったジョンガラ節の替え歌の中にヒントが有るかもしれない。

〽サーテ一座の皆さん方よ/かかる文句を何よと聞けば/これは過ぎにし其の物語/国は信州松本在で/予備上等兵・松岡幸三/村に模範と呼ばれる人よ/何の不幸かしらないけれど/妻は病に二人の子供/親子四人は涙に暮らし/時は明治の37年/日露戦争が開かれまして/病める女房と二人の子供/残し戦地に行かねばならぬ/それと悟りし貞女の妻は/夫の心を勇めんものと/二つなる子を我が手に殺し/返す刃で胸突いて/哀れ妻子は非業の最期/それと見るより松岡幸三/残る倅の勘吉ともに/妻子の死骸にとりすがられて/呼べど叫べど帰らぬ旅よ/そうこする間にはや夜が明ける/五時の時計を合図となして/否が応でも行かねばならぬ/5つなるこの手を取りまして/これさ勘吉よう聞きやんせ/そなた独りをこの世に残し/戦地に行くのは気懸かりゆえに/死んでおくれよ吾等と共に/いえば勘吉涙を流し/…ちょいとここらで止めておきます

一度故郷を捨てていったものに、村人の目は冷たい。金もなければ仕事もない小山内嘉七郎は、権現崎まで歩いて、そこの尾崎神社の脇で昼寝をした。権現崎は徐福伝説のある土地で、尾崎神社には徐福と熊野権現が祀られている。

ウトウトしていた小山内嘉七郎がハッと目覚めると、眼前に真っ赤な太陽が燦々と輝くのを見た。絶望の中で天空を真っ黄色に染め上げる真紅の太陽の美しさは、小山内嘉七郎に神秘的な霊感を与えた。その夜、寝床で彼は神託を受け、「ここが極楽浄土の発生地である」と教えられた。
その日から小山内嘉七郎は小山内漫遊となった。「漫遊仙人」と自称して、山伏の格好に身を包み、毎日権現崎から夕日を見つめる生活を始めたのである。

権現崎から見る夕日の沈む位置を克明に記録した結果、春の彼岸の中日(春分)に太陽が真西に沈むことを発見し、仙人は権現崎こそ世界一の霊地であると確信する。
端から見てると滅茶苦茶で薄弱な論理だが、修験道においては春分・秋分・冬至・夏至の日の出・日没の関係で聖地を定める太陽信仰がある。ある意味では、山伏の本来的な修行といえるかもしれない。

この神秘体験の後、仙人は故郷の嘉瀬にある観音山のお堂に住み込んだ。
彼は村からも都市からも二重に排除された人間だった。一度故郷を捨てて失敗し、再び村に帰ったが村の内側には入れない。しかし、そんな彼が山伏姿をすることで、伝統的な村の人々のアジール観に己をイメージ化させることとなった。「あいつはとんでもない変人だが、山伏なら仕方ない」ということで、ふてぶてしく居座ることができたのだった。

山伏となった漫遊仙人は、岩木山はじめ各地の霊場を参詣してまわり、ほうぼうで神秘的体験をした。活火山である岩木山の火口に飛び込んで神の姿を見たり(仙人いわく「猿のようであった」そうな。)、そうした事を通じて自分こそが真の山伏であり、仙人であることを確信していったのである。

とは言え仙人では食っていけない。市役所や自衛隊に耐寒体操の指導をして小銭を稼いだり(ということは、そういうコネクションは一応あったのか?)、祭礼に出かけて民謡を歌っておひねりを得たりしたのだった。

また仙人は「青森県の観光発展のため」と称し、村や町の有力者から寄付金を集め、昭和48年(1973)8月に「仙人観光」という変な新聞を発行した。
俗界を否定すべき仙人が、俗まみれの最たるものである観光を奨励するとはどういうことか。まるで滅茶苦茶である。
新聞の記事を見てみよう。一面には青森の名所「暗門滝」の紹介や、中村秀吉という十和田湖開発の功労者の記事を乗せたりと、それらしい体裁を整えてある。
が、それ以外の部分、二面も三面も、「耐寒体操の素晴らしさ」だの「仙人建立の観音像に観光客殺到、ますます忙しくなる漫遊仙人」だのといった、自分の宣伝ばかり書いているのである。


新聞の下半分には、地元政治家や医者・旅館や商店などの広告が合計120も並んでおり、よくぞここまで広告営業できたものだと感心してしまう。だが結局は第二号まで出ることはなく、「仙人観光」は第一号を発行して終わってしまったのだった。一度は騙されたスポンサーたちが、実際に発行された新聞のあまりの毒気に引いてしまったのだろう。

とはいえ、それにめげない漫遊仙人は青森県中の祭礼に顔を出して、地元の奇人としておおいに有名になっていった。

昭和53年(1978)3月19日。近くの駐在が漫遊仙人のお堂に立ち寄ったところ、喀血した血で床が染まり、苦しみに悶える仙人を発見した。駐在はただちに救急車を呼んだ。
ところが仙人は救急隊員に烈火のごとく怒りだし、「俺だば仙人だ!医者はいらねえ!帰れ、帰れ!」と救急隊員を怒鳴りつけて追い返した。
これだけ元気なら大丈夫だろうか、と思いつつ帰ったものの、駐在は心配になって翌々日にまたお堂を訪れた。そこで駐在が見たものは、煎餅布団の中で事切れていた漫遊仙人であった。
死亡推定時刻は20日。仙人は右脇を下にして、胎児のように丸まりながら亡くなっていたという。奇しくも3月21日は弘法大師入滅の命日でもあった。83歳の大往生である。

漫遊仙人は、正式な山伏修行は一切していなかった。
ただ、己にとっての山伏で在り続けた。それゆえに、山伏と呼ぶにはあまりにも俗っ気の強い生活であった。
しかし、その生涯を振り返ると、情報・芸能・太陽信仰と神秘体験に彩られた、原始の山伏の姿そのものであった。

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