重めの「感覚過敏」を生まれ持ち、それでも運だけでどうにかなっている人の話

はじめまして。
名乗るほどの者ではないので名乗りませんが、本日は自己紹介をさせていただきます。
あっ、長いですちなみに。ごめんなさい。


発覚は小学六年生

生後間もない私は好物のコロッケを前にしたコロ助もかくやと思われる愛らしさ、邪念のかけらもないその笑顔は西東京の周辺を愛の光で満たしたと言われ、愛らしさと笑顔については今でも定評があるものの、妙なところで足を挫きました。

小学二年生の秋頃でしょうか。
私は「クラスのみんなにいじめられている」と言ってはばからず、学校へ行こうものなら脛に凄まじい痛みが走るという有り様で、ものの見事にドロップアウト。小学三年生の頃には玉のような不登校児が誕生しました。

しばらくはPS2版のドラクエ5をしこたま遊び、どうにか心を落ち着かせていましたが、次第に両親も私も将来を憂い始めまして、当時「適応指導教室」と呼ばれていた施設に通うことを決意します。
私はそこで何をしていたのかというと、自分以外にこどものいない閑散とした教室内で、二名の奥さま職員と井戸端会議に花を咲かせ、ゆっくりと勉学に励んでいたのであります。
そんな日々の中、私はいつの間にやら病院へ通うことになっており、病院やとある大学での妙なテストや実験に参加しつつ、通級指導教室と呼ばれる施設にも顔を出していました。通級指導教室でも静かな個室で担任と喋ってばかりであったため、同世代の友人と遊ぶ機会はまったくありませんでしたが、意外に多忙であったように思えます。

そんな生活が三年。
紆余曲折はあれど、気がつけば私も小学六年生。
「あらやだ、このままじゃまずいわよね」と奥さま教員たちに言い残し、私はいわゆる「学校」へと戻る決意をしました。
当時はまだ自分が本当にいじめを受けていたと思っていたので、帰ってきた自分が元気そうならいじめっ子たちへの良い報いになるだろうとか、そんな邪念もあったような気がしますが……
しかし、現実はそれどころではありませんでした。

学友たちとの日々は極めて順調。
過去にいじめられていたとは思えないほど暖かく迎えられた私は、持ち前の愛らしさで次々とコミュニティに溶け込んでいきます。(主観)
しかし私の身体はなぜか日に日に疲弊していき、家に帰る頃にはバタンのキュー。楽しんでいるはずなのですが、日によって妙な頭痛も起こります。はじめは学校生活に慣れていないだけかと思っていましたが、どうもそうではなさそうで、「不思議なチカラにでも目覚めちゃうのかな」と呑気なことを考えていたとある雨の日。
体育館にてスピーカーと音楽を使った授業が行われており、私も学友と共に綺麗な汗を流していたのですが……
徐々にゆらめき、暗くなっていく視界。
授業の冒頭から感じていた妙な頭痛が強まっていきます。

はて、これはなんぞや。

そうして首を傾げる暇もなく、気がつくと私は体育館のすみっこに座っており、時計を見ると授業が終わっていました。
見守りに来ていた通級の担任とクラスの友人たちが心配そうに私に声をかけましたが、肝心の私は青ざめた表情で小刻みに震えていたことでしょう。
私はすぐに理解しました。自分は気を失っていたのだと。

通級の個室に撤退し「一人にしてくれ」と言って、私はひたすらに思考を巡らせました。
何が原因なのか、そんなに私は体力がなかったか、そもそも最近の疲れは異常ではなかったか。
将来を憂う焦燥感で疲れを無視していたものの、ここまでくるとそうはいきません。
私はこれまでを振り返り、妙な頭痛が起こっていた風景を思い起こしました。

全校朝会、音楽の授業、チャイム、体育館での授業、休み時間に騒ぐ子供たちの姿………

当時の私は間抜けな今と異なり察しがよかったようで、思い起こしたフィールドのすべてに共通する「うるさい」という要素に何かがあると目をつけました。
ただ、うるさいからといって人は気を失うものでしょうか?音響兵器を前にしたわけでもないのに、そんなはずはない。
振り出しに戻った私でしたが、瞬時にあることを思いつきました。

何気なく足を運んでいたこの「通級」は、詳しいことはわからないけれど、何らかの「障害」を抱えている児童が集まっている……そんな話を小耳に挟んでいた当時の私は、親から聞かされていないだけで自分にも何かがあるのでは?と思い、職員室の本棚からいくつか本を盗み見たのです。
当時の私は障害の区分など知る由もなく、とりあえず先生たちの読む本の中に自分が該当する障害か病気について書いてあるだろうと、そのように考えていました。
そしてその中の一冊、発達障害に関する書籍の中には書いてあったのです。

「聴覚過敏」

これだ、と思いました。
というより、その場で出来る稚拙な調査において、音に関連する症状はこれ以外にありませんでした。
通級の担当に本を盗み見たことを詫びつつ、この症状についてきけば、どことなく先刻ご承知といった様子。

思えば、私は昔から比較的に耳をふさぐことの多いの子供であったといいます。
スイミングスクールや体操教室では、スピーカーから音楽がなり始めると一目散に逃げ出すとか、そんな記憶も確かにあります。
しかし記憶というのは曖昧で、知識がなければ目にもつきません。目に見える特徴でもなければ、自覚のない私もその聴覚を当然のものとして生きていました。
閑散とした適応指導教室では音など大してないわけで、登下校の道も極めて静か。通級でも大きな声をあげる児童を嫌い、使われていない応接間に引きこもる日々でしたので、喧騒はもちろん、チャイムもそこまで大きく聞こえません。
そのため、私は自分の聴覚が異常などとはまったく思いませんでした。 
後に、この気絶事件の少し前に「聴覚過敏」の診断が降りていたことが発覚しましたが、それを親から告げられていない私が気がつかないのは当然のこと。

今になって思えば「いじめを受けていた」という話も、教室内の喧騒で感じていたストレスが誰かのイジワルひとつで決壊したというようなものでしょう。くわえて陰口なんぞは簡単に拾ってしまう地獄耳ゆえ、それを自分に言われているものだと勘違いすれば、クラス全体からいじめられていると思いこんでも仕方がないかもしれません。

とにもかくにも私はそこで、自分の妙な特性について知ったのです。

崩壊していく思春期

知らぬ間にできた切り傷は、お風呂に入って傷を見つけた瞬間にしみてくるもので、妙な症状は自覚した瞬間にその本性を表します。
チャイムが鳴るだけで猛烈な頭痛に襲われ、私はたちどころに弱っていき、ほどなくして耳栓やノイズキャンセラー、防音イヤーマフなしでは生活もままならず、学校生活にも当然のごとく支障をきたします。

とはいえ私は運が良く、友人や教員たちに恵まれたので、どうにかこうにか痛みに耐えながら修学旅行にも参加し、笑って卒業の日を迎えました。

しかし、中学校に入ると事態は一変。
担任と相性が悪かったのか、クラスメイトとの間に壁を作らないよう症状については秘密にしてほしいと言っていたのにも関わらず、なぜだか初日に暴露され、知らない新たな学友たちは私を腫れ物のように扱いました。私の愛らしさを知っている小学校時代の友人たちは、揃いも揃って別のクラス。
思春期特有の鋭い目が愛らしさを半減させていたのと相まってか、私はすっかり孤立して、これまで無茶をしていた反動と、校舎の老朽化に伴う音割れチャイムで身体を壊し、一週間に二回も気絶を繰り返す有り様。おまけに聴覚だけでなく、軽度ではありますが視覚にも過敏性が見え隠れ。
医者には何度も相談しましたが、治療法はなく、匙はどこか遠くに投げ捨てられました。
ついには学校から休めと言われ、私は再び将来を憂いました。

学校には行きたい。
しかし次は受験である。
小学時代のように休み休み学校へ通えば成績は虫食い状態。普通の高校はもちろん、中途半端に学校へ通えていれば、サポートを念頭に置いた高校すら入りにくくなるのではないか。
中学からは内申点とやらもある。逃げるは恥だが役に立つ、悔しいが無茶をするよりも、身の程を弁えて諦めることも賢い選択なのではないか。
しかし学校は行きたい。修学旅行にだって行きたい。友人と遊びたい。こどもでありたい。

けれども現実は非情です。
倒れれば倒れるほど私の行動は制限され、ついに登校はできなくなりました。
結果、週に二日のペースで中学校の通級へ通い、それ以外のほとんどの時間は自習。青春の「せ」の字もありません。アオハルもへったくれもないのです。

気がつけば三年が経ち、私は地元の通信制高校に歩を進めるも、バスを使った登下校に難があり、ついにはほとんど校舎には姿を見せず、授業も受けられず、自習だけで三年が終わりました。
もはや高卒資格を購入したといっても過言ではありません。

さて、その後はどうなったか。
実はこの三年の終わりに、世界は未曾有のパンデミックに襲われました。コロナウイルスです。
個人的なパイプを使って職場体験などを予定していましたが、疫病と共に全面的に消滅。そもそも社会の動向がまるで読めず、進学や就職どころではありません。ただでさえ滅茶苦茶な状況で、障害者に構ってくれる余裕などないだろうと。

結果、私はまず進学を諦めました。
当時の私は中学・高校と続く自習だらけの日々に嫌気がさしており、勉学の楽しみなどまるで感じておりません。日本の歴史も丸暗記、掘り下げやドラマ性も皆無であり、テストが終われば忘れます。
ましてや誰の手も借りられない孤独な勉学の日々では、受験勉強までする余力はありませんでした。仮にできたとして、私の身体ではまた大卒資格を「購入」するだけになってしまう。キャンパスライフなどありもせず、対人経験もつめず、この身体では東大卒でも食い扶持に困りそうな気がしてなりません。
後に感覚過敏を持つ方々とお話する機会があったのですが、どうも私の症状は重めのようで、数少ない聴覚過敏の体験談もあまり当てにならないと目を背ける始末。
ならば両親に無駄な負担はかけるべきではないと、就職について考えることになります。

しかしこの身体と、混迷を極めた当時の社会で、食い扶持など見つけられるものでしょうか?
私は迷いました。もちろん探しはしましたが、どれも私のような人間の席はありません。障害者雇用でも実務経験を求められたり、大学への進学が前提だったり、そもそも電車に乗って出社することが前提だったりと理由は様々でしたが、正直に言って気が滅入る日々でした。
思えば私は火の粉を振り払うようにタスクをこなしていただけで、社会的有為な人物となるための布石はことごとく外しているわけです。ましてや疲弊に疲弊を重ねている私が社会という新天地へと旅立てるものか。否、そんなはずはない。
私の後ろには何も残っていませんでした。
友人も、経験も、思い出も、何一つとして。

ふと気がつくと私の心はポッキリと折れて、ただひたすらに近所の畦道を練り歩いていたように思えます。川の畔で小説をかっ食らい、それが終わればお天道様の下で苦悩する。
とはいえ私は焦燥感と自己批判の塊ですから、何もしていなかったわけではありません。働かざる者食うべからずといってはばからず、とりあえず実家の家事を大半担うことに決め、あれこれツテを使って二度ほど労働にも手をつけました。
ひとつは感覚過敏についての研究やら活動やらを行っている家族経営の若い企業で、アルバイトというよりはリモートの事務的な業務委託という形でしたが、担当者の振る舞いやら労働条件やら、口に出せば告発になりかねない事態に陥り手が震え、家族の勧めでお断り。
もう一つはかつて通った適応指導教室の恩師から案内された、恩師の夫が営む小さな会社。しかしそこはリモートではなく、出社を続ける間に相も変わらずぶっ倒れ、青ざめた顔で「できます」と言えば「無理でしょ」と言われ頓挫しました。
ほんの二週間ほどでクビになったあの日、「君は働かず生活保護か年金で暮らしたほうがいい」と社長に言われ、障害者用の職業センターに足を運んでも同じような物言いであり、まだ十九歳という若い芽は、こうして容易く摘まれたわけです。

しかし幸運でねじ伏せた

当年とって二十と一つ。いや、もうすぐで二つになりますが、あれから三年以上の月日が経ちました。
今の私が何をしているかといえば、意外にも暗澹たる細道を進んでいるわけではないのです。

二年ほど前、私は母の勤めていた比較的大きな会社に拾われて、障害者雇用のリモートワーカーとして働き始めました。正規雇用ではありませんが、少なくとも年単位で続いているというだけで、私からすればとんでもなく大きな一歩です。それどころか、今では正社員登用を目指して八時間労働に勤しんでいるのだから驚きです。
当社は障害者雇用の体制はほとんど整っておらず、障害者に限定した短時間勤務での正社員登用を可能にするなど、やらなくてはいけないことが多々ありますが、逆に言えば私にもやることがあって暇はしません。

そしてプライベートのほうでは、なんと早くも伴侶にしたい女性と結ばれ、共生を行うための家を探しているような段階で、ほどなくして私は実家を出るでしょう。
成人を迎えた昨年には、小学時代の同級生たちとも再会しました。直前にコロナを患い成人式にはいけませんでしたが、悔しさでSNSとやらを始めてみればすぐに見つかり、かつての友人から同窓会に誘われ、今でも時折顔を合わせます。
こうして語ると自分でも嘘のように思えますが、嘘でないのが本当に驚きです。

しかし真に驚くべきは、私が努力など一つもしていないという事実でしょう。
着実に布石を打っていたわけでは決してなく、私はただひたすら反骨精神で無理やり音の痛みに耐え、無我夢中で外に出ていたというだけでした。
要するに、私が運が良かったのです。
医学的アプローチで感覚過敏が消えたわけでもなければ、あらゆる痛みには心がきちんと歪みました。しかしなぜだか「好機」が巡ってきたのです。残酷な話ですが、このような身体に生まれて少しでも幸福を得られたのは、幸運以外のなにものでもないでしょう。この運がなければ、私はもうとっくに自決していたかもしれません。

しかし人生は続きます。
私がラッキーボーイのまま人生を終えられるかは、この先に待つ好機と忍耐にかかっているでしょう。故にこのnoteを自らを見つめる新たな場として拓き、恥ずかしながらネットの海に放流すると決めました。
多少なりとも誰かの目があったほうが緩みませんし、そう多くない感覚過敏罹患者の声が残るというのは少しくらい意義のあるものだと思っています。
とはいえ、感覚過敏については「気合で耐える」以外をしてきませんでしたし、役立つ情報といえば「雨の日は傘の持ち手にイヤーマフをかけると楽」くらいなものですから、何卒ご容赦いただければと思います。

では、ひとまず本日はこれにて。
お疲れさまです。

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