取り返しがつかない思考のメモ 2024/5/30

「もう二度と」とか、「今生の別れ」とか、「now or never」とか、「期間限定」とか、そういう言葉にめっぽう弱い人生を送ってきたけれども、その根底にあるのは、今この瞬間はもう永遠に巡ってこないという思考なのだろう。そして、その先にあるのは、自分のしたこと、言ったこと、自分とは関係なく起こったこと、他人が言ったこと、がもう全て、どんどん、取り返しのつかなくなったこととして世界に記録されていってしまっているという認識。認識、というけれどもそれは悲しみ、絶望、とか色々なネガティブな言葉として括ってしまって差し支えない。たとえ一回目が自分にとってベストだったとしても一回ポッキリのチャレンジには色々思うところが多い。よほど自信のあるものでなければ、おおよそ一回でベストを叩き出せることであっても猶予が欲しい。一回だけだったらそれはもうパフォーマンスがどうだったかを別にして、とにもかくにも取り返しのつかないことだと思ってしまうから。それはつまり生きることそのものの悲しさ、絶望。これは世界の成り立ちからいって否定したくても否定できない。

でも時計は丸い。何度も何度も同じ時間がやってきて、昨日できなかったことが今日できていたり、今日できなかったことは明日には出来ているだろうと思って寝てしまう。もうこの瞬間は取り返しがつかないのに寝てしまう。寝なければ死んでしまうけれども、取り返しのつかなさに抗っていてはいつまで経っても寝れない。だけれど寝なければいけないから人は時計を丸くした。今日この瞬間が、若干変化したものだけれども24時間後にまたやってくる、あるいは365日後にやってくる。だから、取り返しはつく。人間は取り返しのつかない悲しさ、絶望から時間の流れを循環にした。だから取り返しがつくように思える。そんな生活に慣れているから、実は取り返しのつかない時間の証明としてどんどん老いていること、環境破壊が年々進んでしまっていること、地球という星に終わりがあることみたいなことを考えた瞬間、ふと自分の浮かんでいる湖の水中を覗いてみると、そこはとっくに足の届かない水域で、足の向こうには真っ黒な深淵がどこまでも吸い込むように存在していることに気づいた時のような恐怖を感じてしまう。この唐突さに驚きたくないから、普段から取り返しがつかない思考で生きている。

一方世の中にはそう生きていない人もいて、そういう人から見ると僕が「二度と」とか、「金輪際」とかいうたびにやけに仰々しい表現を出してきたなと思うようである。世界は本当は取り返しがつかないのに。取り返しがつくというのは文化的なことで、社会的なことで、ある種の洗脳状態にいるにもかかわらず、取り返しがつかない思考の方が何やら不器用な風に受け止められることは一体どうすればいいのやら。しかし、一体なぜだろう。何を隠そう僕自身が取り返しのつかない思考から抜け出してしまいたいと思っている。もっと、巡り合わせのように、運命のように、三角関数的に、何かを信じていきたいと思う。そうだ。取り返しのつかない思考から抜け出すには多かれ少なかれ何かの信仰が必要になる。これまで、信仰とは世界を直視できぬ弱き者のみがよすがとするものだと一蹴してきたけれども、ここのところ、そんな気取った考え方で疲れること、その疲労感を認めることに抵抗がなくなってきた。もっと本当の自分を見つめていいのだ。自分がなりたい自分ならどう思うかという思考に沿って自分を煌びやかにして気取って生きていたけれども、その結果、目の前には本当の自分とは絶妙にミスマッチの生き方ばかり。身長が170センチしかないのに、180センチあって欲しいと願うばかりに180センチ用の服を揃えて、ブカブカになって、お金も見た目もスポイルしているみたいな、そういうことばかり。本当の自分に沿って生きなければずっとそんなことばかり起こる。だから、もっと自分の求めるものを手に入れよう。つまり、それは今、取り返しのつかない思考から脱却するための信仰。

疲れた。書きたかったことはこんなことではなかった。

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