【短編】プロダクトローンチ
あまりそうは見えないかもしれませんが、これはklis(筑波大学情報学群知識情報・図書館学類) Advent Calendar 2023 の17日目の記事です。ちなみにこれを書いている人間は KLiS 21生です。
その本は ― 厳密に言うとそれは「本」ではないのだが ― 膠着した現代社会を揺るがすほどの力を持つ存在であると同時に、図書館職員にとっては深刻な悩みのタネであった。
どういうことか。上記の内容を3つの部分に分けて説明していこう。
第一に、その「本」が厳密に言うと本ではないという点について。この点を理解するためには、まずその本(本稿では便宜上「本」と述べる)の極めて特殊な形態について説明せねばならない。
本を取り出す。まずは表紙がついている。A5版、布クロス。硬派な文学全集を思わせる赤一色の表紙には、タイトルと出版社名のみが白く刻まれている。
『0年0月』 人類書房
けったいな名前である。人類書房というのは2021年に突如としてこの世界に出現した出版社であり、砂漠のごとく殺風景なホームページには、企業名と取ってつけたような経営理念(われわれは人々の求める情報を広く社会に発信し……云々)、および「『0年0月』刊行のお知らせ」のみが記載されている。
『0年0月』の形態の話に戻ろう。表紙を開き、ピンクに色づいた見返しとタイトルのみが記載された扉をさっさと開いてしまうと、次に現れるのは眩いばかりの白紙のページである。突如として現れた雪原の如き風景に困惑し、思わず読者がその頁に触れると、それが単なる白紙ではないことに気付く。それは2つの頁が丁寧に張り合わされた、袋とじになっているのだ。それもフランス装のアンカット本のように小口のみが閉じられているわけではなく、内部の静謐を守るためか、天にも地にもぴたりと封がなされているのである。更に驚くべきことには、一旦その袋とじを無視してページを繰ると、そこでは既に、簡単な奥付の頁と先ほども目にしたピンク色の見返しとが、所在なげに遊んでいるのである。
おわかりいただけるだろうか。すなわち、『0年0月』は本文が袋とじのみで構成されている書物なのである。ゆえに、本文が少なくとも49ページ以上からなる冊子体を「本」とするユネスコの一般的な定義に従うならば、この冊子体を「本」と呼ぶことはできない。
以上が、第一の説明である。
第二に、この本が日本社会を揺るがす力を持っていたという点について。
まずは先ほど無視した『0年0月』の袋とじを開封するところから始めよう。袋とじの外側には何も書かれていない。その内部に存在する2頁分の知的宇宙空間には、一体何が存在しているのだろうか?
26文字だ。
袋とじを開封して見開きとなった右側の頁には、7文字×2行が、左側の頁には7文字の行と5文字の行とが、それぞれ十分な間隔を開けて縦書きで記載されている。漢字は用いられておらず、雪原に刻まれた黒い印はすべてがひらがなである。
七・七・七・五の26文字というのは、よく知られた都都逸の定型である。要するに、『0年0月』は袋とじの中に1章の都都逸が収録された書物なのである。一般的なA5版の本と比較すると、本当にゴミのような情報量しか保有していない代物だ。
この本のどこに、社会を攪乱するような力が潜んでいたのか?
現代における大部分の社会的事象と同じように、始まりはSNSであった。自身の読書記録を発信する投稿を続けていたとあるアカウントが、2冊の『0年0月』を見開きの状態で撮影した写真を投稿した。添えられていた文言は以下のようなものであった。
「本当に不思議な作品に出合いました。というか、これは『作品』と呼べるのでしょうか。何がすごいって、まずその薄さ! 文字が書かれているページが2ページしかないんです!!! これでお値段2500円っていうんですから、恐ろしい世の中になったものですw(続きます↓)」
「でも、本当にすごいのはここからなんです。画像左は僕が買った本、画像右は奥さんが買った本です。
内容が違うのがおわかりいただけるでしょうか……?
偶然友人もこの本を買っていたようなんですが、それとも内容が違うみたいです。これは一体どういう試みなんでしょうか、『人類書房』さん?」
投稿者の発言の意味するところは、その写真を見れば明白である。恥ずかしげもなく写り込んでいる2冊の『0年0月』には、それぞれ全く異なる文言、換言すると全く異なる都都逸が記載されていたのである。
以下に示すものがその2章の都々逸である。
1.こちふかざれば にほひおこせよ あるじなしとて うめのはな
2.みやこのひつじ いりひをむかえ ふちとなりぬる いけのみず
……なんのこっちゃ。
この投稿はそれなりに話題を呼んだ。そんな薄っぺらい本をなぜ高い金を払って買ったのか、しかも夫婦そろって同じ本を買うことがあり得るのか、という疑問も投げかけられたが(それに対する投稿者の回答は、「この本には不思議な魅力を感じたし、何よりどんな内容が書かれているのか気になったから買った。奥さんも同じようなことを言っている」というものであった)、新たな本との出会いのためなら金を惜しまないという、頭のネジが緩んだ幾人かのビブリオファイルは従順にも『0年0月』を購入し、犬のように目を輝かせて袋とじを開封し、そして自分の買った本に書かれていた都都逸を大声で呟いた。
そしてその中に、どれ一つとして同じ内容のものは存在しなかった。
かくして、「袋とじだけで構成されている、1冊ごとに内容の異なる本」の存在はそれなりに話題になった。とはいえ当然ながら、「和」を重んじるこの島国に、たかだか26文字の情報量に2500円を支払う奇人変人は然程多く暮らしていなかった。さらに言えば不思議なことに、人類書房という、シーランド公国の如く突如として出現した出版社の唯一の刊行物であるにもかかわらず、『0年0月』は大部分の書店の「芸術」か「オカルト」の棚で見かけることができた。したがってこの本を入手することは、アイロニカルな表現にはなるが、金銭に余裕さえあれば極めて容易なことであったといえる。
少なくともこの段階においては、である。
いつの時代にも常軌を逸した存在というものは現れる。この場合においては、『0年0月』を2冊購入する者というのがそれであった。
52文字に5000円!
とはいえ、同じ装丁であるにもかかわらず内容が異なる2冊の本を、コレクション目的で収集したいという気持ちは理解できないわけではない。その意味で彼らの常軌の逸し方は、まだ修正が可能な範囲にとどまっていたと言える。
そんな彼らは、2つの袋とじを開封した後、決まって同じ反応を示した。
「え? どういうこと? 俺が買ったやつ、どっちも全く同じことが書いてあるんだけど?」
そう、同じ人物が複数の『0年0月』を購入した場合、そこに書かれている都都逸はすべてが完全に同じ内容だったのである。
彼らは当初、同じ書店に積まれている本は同じ内容なのではないか、とか、同じ日に書店に入荷された本は同じ内容なのではないか、とか、様々なアブダクションを行った。しかし、それらが事実を言い当てているとは考えにくかった。その頃になるとSNS上で自分が購入した『0年0月』の内容を公開することが小規模な流行になっていたのだが、貴重な時間を割いて少しハッシュタグを遡ってみるだけで、例え同じ日に同じ書店で購入した本であっても、購入した者が異なれば内容が異なるという事例がいくつも観測された。そして、違う人物が購入した『0年0月』の内容が一致したという事例は未だ確認されていなかった。
これは一体どういうことなのか。ついには関東圏と関西圏の異なる系列の書店、およびフリマアプリでの転売という3つの異なる入手先を用い、自身のもとに3冊の『0年0月』を集める猛者が現れたが(補足すると、これだけ情報産業が喧しい時代であるにもかかわらず、『0年0月』はオンライン書店に一切出品されていなかった)、結果として彼は6000円程度の金を支払い、3冊の全く同じ内容の本を手元に置くことになった。
ここまでくると、多くの者は『0年0月』の異常性をより正確な形で理解するようになった。すなわち、この本は1冊ごとに内容が異なるのではなく、袋とじを開封する者によって内容が変化し、同じ開封者のもとには常に同じ内容が現れるという代物なのである。
この特性が広く認知されるようになると、社会における『0年0月』の受容のされ方も変化していった。
第1には、単純に需要が激増した。自身が購入した『0年0月』の文面を公開するムーブメントは世代を問わず流行し、それに伴ってぺらぺらの赤いハードカバーたちは書店から姿を消し、代わりにフリマアプリ上で渡り鳥の如く元気な姿を見せるようになった。
なぜそこまでこの厄介な本を求める者が増えたのか。考えてもみてほしい。単に1冊ごとに内容が異なる本というだけなら、それは単にコレクターやミーハーにいやらしく息を吹きかけて性癖を呼び起こすだけの、何の面白みもない存在にすぎない。しかし、ある者が袋とじを開ければ必ず決まった文面が顕現し、しかもその内容は誰一人として同じではないということになれば、その文面を自分1人に対する特別なメッセージ、あるいは金科玉条のように感じる読者が現れても不思議ではないだろう。そして実際に、そういう者が大量に現れたのである。
次に何が起こったか。先に例示したように、袋とじの中に記載されている都都逸はどれも明確な意味を読み取れるものではなかった。しかし、前述のようにこの都都逸を個人に対するメッセージであると考えるならば、そこにはなんらかのアレゴリーが存在しなければならない。このようなニーズを背景としてか、インターネット上には『0年0月』の文面にどのような「意味」があるのかという疑問に対する答えが、次第に集積されていった。これらの意味付けの中には、著名な占い師が自身の知見を踏まえて述べた内容があれば、だれが言い出したのか定かでないにもかかわらず、暗黙の了解として定着している内容もあった。例えば「水」に関する文言は「逆境に立ち向かう」という内容を主に表していることになっていたし、「鳥」に関する文言は「快楽」や「不安定」を表すとされていた。最も、どのような文言が一緒に現れるかによって全体としての意味は微妙に変わってくる(とされている)ため、話はそこまで単純ではないのだが。
このような意味付けが定着したことによって、『0年0月』の影響力は更に肥大化した。開店前から書店に並んだり、転売屋に高い金を払ったりすることでどうにか本を入手した健気な読者たちは、袋とじの中の都都逸を確認し、それに対する意味付けを行うことによって、喜んだり、嘆いたり、悲しんだり、放心したり、狂喜乱舞したり、取り乱して暴力を振るったりした。もはや日本社会に『0年0月』の名を知らない者はおらず、まだ本を購入していない者は、なべて自分にとっての26文字を気にかけるようになっていた。この時代においては信じ難いことに、1冊の紙の本によって社会が大きく変化してしまったのである。
以上が、第二の説明である。
第三に、この本が図書館職員にとって深刻な悩みのタネであったという点について。
問題の背景としては、『0年0月』の刊行から幾何かの期間が過ぎ、書店等の正規ルートで実物を入手することが難しくなる中で、公共図書館に対して『0年0月』の所蔵を求めるリクエストが頻繁に行われるようになったということが挙げられる。
これは公共図書館にとって大きな問題であった。最初に説明したように『0年0月』は厳密には「本」ではないが、多くの市民にとって意外な事実を述べるならば、図書館という施設はふつう、本以外の資料も大量に(あるいは僅かに)収蔵しているものなのである。万人の知る権利を保障することを枢要な役割とする公共図書館は、たとえ定義上は「小冊子」にあたる『0年0月』であったとしても、それが一般的な市場で流通しており、利用者の要求がある以上は当然所蔵・提供すべきである。少なくとも当初は、これが図書館界の一般的な考えであった。
しかし,この考えはすぐに障壁にぶつかることになる。袋とじを開封する者によって内容が変化する本を、一体どのようにして利用者に提供すればよいのか?
図書館においては、雑誌等の袋とじは開封した状態で展示することが原則である(泡坂妻夫の『生者と死者:酩探偵ヨギガンジーの透視術』のような、袋とじが作品の中核を担っている図書であっても、開封した状態で利用者に提供することが一般的なようである。一方で、大学図書館等に所蔵されているアンカット本に関しては、未開封のままで展示し、利用者の求めに応じて図書館員や利用者自身が開封を行う場合もあるようだ)。しかし、『0年0月』を開封済みの状態で利用に供することに、一体どんな意義が存在するというのだろう。常識的に考えれば、図書館にこの本をリクエストした利用者が求めている情報が、「自分にとっての26文字」に他ならないということは容易に理解できる。図書館職員が袋とじを開封してしまった時点で、ほとんどの利用者にとって資料の価値は失われてしまうのだ。だからといって、ある利用者にだけ袋とじを開封する特恵を与えてしまうことには、公平性の観点から問題がある。
このように、図書館職員は単に資料を提供するだけでなく、利用者の情報ニーズを適切に把握したうえでそれを十全に満たすことを目指すべきである、という職業観を持つ優秀な職員たちにとって、『0年0月』はマッチ棒の如く取り扱いが難しい代物であったのである。
このような背景から、多くの図書館では苦肉の策として複本が用意された。すなわち、図書館員たちは2冊の『0年0月』を並べて展示することによって、袋とじの開封者によって都都逸の内容が異なるということを、どうにか利用者に示そうとしたのである。「自分にとっての26文字」を知りたい利用者のニーズを満たすことはできないものの、『0年0月』の実物、あるいは特異性を自身の目で確認したいだけの利用者も相当数存在することを考えれば、この展示方法にはそれなりの意義があると考えられた。
しかし、話はそううまくは進まなかった。袋とじの開封という大義を仰せつかった図書館職員たちは、なるべく仕上がりが綺麗に見えるよう慎重に頁を切り開き、2冊の内容を比較するために机の上に並べた後で、例外なく目をまん丸に見開くことになった。
それらに記された都都逸が、全く同じ内容だったからである。
この時期、事態は並行して進んでいた。
全国の書店では、数少ない『0年0月』がハサミで切り裂かれるという被害が複数件報告された。安くない金を払って本を購入することよりも、手っ取り早く「自分にとっての26文字」を知ることを選んだ、短絡的な犯罪者の仕業であると推測された。
『0年0月』の異常性と社会への影響力に危機感を抱いたある研究者は、自身の研究室に大量の『0年0月』を集め、本を開かずとも中の文字を認識できる特殊なスキャナを利用することで、その秘密を解明しようとした。開封される以前の袋とじの中には、一体何が記載されているのだろうか?
これらの事例は、結果としてどちらも予想外の知見をもたらすことになる。
前者の事例では、複数の書店が被害報告と称し、袋とじが乱暴に破られた『0年0月』の写真を投稿したことによって、驚くべき事実が明らかになった。痛ましく切り裂かれたそれらの本は、全て同じ内容を保持していたのである。
後者の事例では、開封前にスキャンした『0年0月』の内容がどれも全く同じであることが確認され、研究者は大いに困惑することとなった。涙ぐましいことにそれらの本は研究室の構成員に協力を呼び掛けて集めたものであり、どの本を誰が開封するかは未定であった。最初に中身を知覚したのが研究者であったために、その中身がすべて「研究者にとっての26文字」になってしまったのだろうか。
この仮説が誤っていることは、研究者自身が一番よく知っていた。なぜなら、この研究を行う以前、彼女が書店で気まぐれに購入して大いに後悔した『0年0月』には、今回の実験で確認されたものとは全く異なる都都逸が記載されていたからである。今回スキャナで読み取った都都逸は、したがって「研究者にとっての26文字」ではない。
一体どういうことか。研究者は優れた頭脳を発揮し、すぐに新たな仮説を生み出したが、その仮説はほぼ同時期に、書店関係者や図書館職員によっても提唱されているものであった。この時期、事態は並行して進んでいたのである。
その仮説を以下に示す。
・『0年0月』は、何者かがその袋とじの内部を知覚した瞬間に、その本を所有している存在に固有の26文字が現れる、という特性を保持している。
そして、次が重要だ。
・ここで言う「その本を所有している存在」には、個人だけでなく団体も含まれる。
おわかりいただけるだろうか。
なぜ図書館資料として購入された2冊の『0年0月』の内容が同じだったのか,なぜ書店で切り裂かれた『0年0月』の内容が同じだったのか、なぜ研究者が透視した多数の『0年0月』の内容が全て同じだったのか?
上記の仮説ならばその理由を説明できる。これらの本は、図書館の所有物であり、書店の所有物であり、研究室の所有物であったからである。そこに顕現した都々逸は、それを開封(知覚)した個人にとっての26文字ではなく、それを所有する団体にとっての26文字だったのである。
しかし、まだ不可解な点はある。書店の事例においては全国に同じ内容の本が存在することが報告されたが、図書館の事例においてはたとえ同じ自治体内の図書館であったとしても、各館ごとに本の内容は異なっていたのである。この違いはどこから生じているのか?
このことは、人類書房が委託販売制によって『0年0月』を販売していることを踏まえればなんら不自然ではない。書店はあくまでも販売を委託されているだけであり、そこに積まれている『0年0月』の所有者はあくまでも人類書房なのだから。そう考えると、書店で切り裂かれた本に共通して記載されていた都都逸、すなわち
うぐひすなけば まぼろしのはな やっとみつきの つきよかな
は、「人類書房にとっての26文字」に他ならないのである。
さて、このようにして『0年0月』の異常性が正確に把握されるようになったことで、図書館職員にとってこの本の存在はどのように変化したか?
もちろん、より重い頭痛のタネへと変化した。
複本を展示するという目論見がもろくも打ち砕かれたことは残念だったが、図書館内で『0年0月』が損壊されたり、図書館の前に悪魔崇拝のような団体が常駐したりするといった重大な問題が多発したことに比べれば、そんなことはブッカーに気泡が残るといった問題と同様に、些事であると言うほかなかった。
何が悪かったのかのかと考えても、間が悪かったと言うほかなかった。様々な関係者によって仮説が流布され、『0年0月』の異常性についての理解が広まる頃には、先に説明したような、都都逸に意味付けを行う論理がより広く人口に膾炙していたのである。
このような潮流が原因で、『0年0月』を所有している図書館には、なべて意味付けの論理の信奉者が現れることになった。現れるだけならまだよいのだが、確認した都都逸の内容が公共図書館にとってふさわしくないと(あくまでも彼らの基準で)判断した場合には、その場で実力行使を含む抗議活動が展開されるという点で、彼らは極めて厄介な存在であった。この頃には『0年0月』に対する態度を巡って様々な個人や団体の衝突・対立が生じており、社会はより一層不安定な状況に陥っていたのである。
事ここに至り、各地の公共図書館では『0年0月』を廃棄したり、閉架書庫に移動させたりする動きが見られるようになり、新たにこの本を所蔵する図書館は殆どなくなった。国立国会図書館で『0年0月』を利用することは、いつまで待ってもできるようにならなかった(勿論、人類書房が納本を行っていないという可能性もあったが……)。これらの動きが「図書館の自由に関する宣言」に示された理念に反することは言うまでもなく、図書館界からはいつもの如く、激しい批判の炎が噴射された。
しかし、利用に供したところで利用者の真の情報ニーズを満たせるわけでもなく、所蔵するだけで訳の分からない団体や個人に攻撃されるリスクが生じ、そもそも現代科学で存在を説明することが不可能な資料を所蔵しておくことに対して、各図書館はやはり消極的であった。
以上が、第三の説明である。
2025年。『0年0月』の刊行から4年後。
荒野と見まがうほどだった人類書房のホームページに、初めて新たな記事が追加された。
記事のタイトルは「『0年0月』続編刊行のお知らせ」。内容は以下の通り。
「この度我々は、4年前に大変な話題を呼んだ『0年0月』の続編の制作に成功いたしました! 前作はこれまでに構築された「本」の概念を根底から覆すような作品でしたが、記録されたお言葉が些か抽象的でわかりにくいというご指摘も多くいただきました。
そのため続編となる今作では、書籍のスタイルはそのままで、お言葉の内容をぐっと分かりやすく、具体的にすることを目指しました。4年の歳月を経て努力は実り、この度『0年0月:健康編』,『0年0月:労働偏』,『0年0月:恋愛偏』の3作を上梓することとなりました!
どの作品にも皆様が人生を送るうえで、極めて有意義なお言葉が記録されております。発売は1カ月後。ぜひ全国の書店で、お手に取ってお確かめください!」
このホームページを閲覧したことで、全国の図書館職員の頭に植えられた頭痛のタネは一斉に発芽した。
今までとは比べ物にならないほどの混乱が予想されたからだ。
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