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私たちは自由なのか? 青山拓央『時間と自由意志 自由は存在するか』序文

「自由」を疑う哲学

以前の記事で紹介した書籍の著者である青山拓央の『時間と自由意志 自由は存在するか』を読んでいく。ただし、本記事は青山の本論ではなく、序文の一般的な論争の紹介について概観していく。

それにしても、哲学というものは誰も頼んでもいないのに当然信じられているものを疑いぬく奇妙な営みである。

標的になるものはいくつかあるが、そのうちの代表格に「自由」がある。「自由」の存在が疑われ、その証明が困難であれば、人間は「不自由」だという結論になる。

「不自由」と言っても、そもそも「自由」が二つの意味で使われるため注意が必要だ。

まず「したいことをする」という意味の自由は英語でいう”liberty”である。身体拘束されているとか、常に監視をつけられていて夜遊びもできない、というような、いわゆる「妨害」によって損なわれるよう「自由」である。

一方、「何をするかを自ら決める」という意味の自由は「自由意志 free will」と呼ばれる。特徴は2点ある。一つ目は「意志」が行為選択の<起点 origination>となること。二つ目は現実に選択した行為以外の選択も可能であった意味での<他行為可能性 alternative possibility>である。

これらの自由のうち、頻繁に哲学者が攻撃を加えるのは「自由意志」の方である。攻撃の手段は「決定論」である。「決定論」とは、「世界で何が起こるかはすべて決まっている」というものである。これより、自由意志が損なわれるというのである。

一方、一般に「したいことをする」意味での自由(liberty)は決定論的世界でも成立するとされる。たとえ私の行為や意志が、物理学・心理学的な法則の下ですべて決定していたとしても、水を飲むことを意志して妨害なしに水を飲んだら、私は自由に水を飲んだと言える。

この自由とは決定論と両立する種類の自由(liberty)を「両立的自由」と言い、この自由こそが真の自由であり、自由意志などなくても自由である、と提唱するが「両立論」である。先駆的な提唱者はホッブズである。

※両立論者は、決定論を否定、あるいは態度を保留して、“もし”決定論が成立するのだとしても自由は守られる、と主張することがありえる。

いったん以下に整理する。

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この攻撃に対して哲学者はさまざまな反応を示す。反応の分岐は主に三つだ。一つ目は、決定論そのものを認めるか。二つ目は、自由にとって本質的なのはどちらの自由か。三つ目は、自由意志の存在を認めるかどうか、である。これらを機械的に組み合わせると多くの立場が作れるが主には次の三つの立場だ。

たとえばホッブズは決定論が正しいと考え、自由意志の実在を否定したが、両立的自由こそ自由の核心と見なしたため、人間は自由であると述べた。この考えは今日では<やわらかい決定論 soft determinism>と呼ばれる立場に属する。一方、決定論を認めつつ自由意志こそ自由核心と見なすなら、人間は自由ではなくなるが、こちらは<固い決定論 hard determinism>と呼ばれる。その他、決定論を拒否し、自由の核心となる自由意志の実在を擁護する説は<自由意志説 libertarianism>と呼ばれる。(『時間と自由意志 自由は存在するか』17頁)

参考までに、かつてウィキペディアに存在していた(らしい)図がわかりやすいため以下に貼り付ける。※「決定論も自由意志も否定する」立場が抜けているため現在は削除されている。

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次回から本論に入っていく。


※参考文献

『時間と自由意志 自由は存在するか」青山拓央 筑摩書房 (2016)

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