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『哀れなるものたち』とマズローの欲求階層 〜抑圧により崩れた欲求階層均衡の再構築〜

先日、ようやく映画館へ足を運び、ヨルゴス・ランティモス監督の最新作『哀れなるものたち』を見てきました。

とても面白かったので、私個人の見解を共有するべく、ここに記します。
(1度しか視聴していないため、不完全な表現があるかと思いますが、お許しください。追記する可能性もあるかと思います。)



簡単な登場人物紹介

ベラ・バクスター(エマ・ストーン)
自殺後、脳死状態で博士に拾われる。胎児の脳を移植され蘇生。身体は大人、脳は子供。

ゴドウィン・バクスター(ウィレム・デフォー)
天才外科医。見た目もキャラクター像もほぼフランケンシュタイタイン。”ベラ”を誕生させた。

ダンカン・ウェダバーン(マーク・ラファロ)
ヤリチン弁護士。ベラに振り回されるが、次第に魅了されていく。

マックス・マッキャンドレス(ラミー・ユセフ)
ゴドウィン・バクスターの助手。ベラの観察を頼まれる。ベラに魅了され、婚約者となる。

マーサ・フォン・カーツロック(ハンナ・シグラ)
ベラが船上で出会う淑女。20年性行為していない。

ハリー・アストレー(ジェロッド・カーマイケル)
マーサとともに、ベラが船上で出会う黒人男性。ベラに”真実”を見せる。

アルフィー・ブレシントン(クリストファー・アボット)
ベラになる前の人格(?)の婚約者。


マズローの欲求階層


今回はこの「マズローの欲求階層」を主軸とした見解を述べていきます。

こちらは、簡単に言うと人間の欲求は5段階でピラミッド式の階層構造になっていると言う説、です。
優先順位としては下段の方が高くなっています。
それぞれの内容は図に簡単に記されています。


ズバリ『哀れなるものたち』とは、

”社会からの抑圧により崩れた欲求階層均衡の再構築映画”

と感じました。

これから詳細に紐解いて行きます。


ベラと「マズローの欲求階層」の関連

ベラはゴッドウィン・バクスター(以下より”ゴッド”と呼称)により生み出された人物です。
生み出された時からベラは、基本的に家の中での生活のみで、外界との接触は許されませんでした。
それは、ゴッドの研究への好奇心によるもので、余計な刺激から防ぐため。あくまでベラは研究対象なのです。

つまりベラは、社会と切り離された環境で育てられたのです。
(しかも恐らくまともな教育も受けていない。)

マックス・マッキャンドレス(以下より”マックス”と呼称)の観察記録によると、常人を遥かに超える速度で成長を遂げていきます。


”この抑圧された環境で育てられた人はどうなるのか。”

それは、反発です。
ex)外へ出ちゃダメ。→外出たい!!

まだ幼いベラは、純粋で好奇心旺盛なため、抑圧されたことによる反発が、冒頭ではよく起こります。
研究対象でしかないわけなので、まともな教育は受けられていないと予想できます。

ここで、「マズローの欲求階層」と照らし合わせましょう。
例えとして「安全欲求」を挙げます。

ヤリチンのダンカン・ウェダバーン(以下より”ダンカン”と呼称)に言い寄られ、外の世界へ連れ出すと言われたベラ。
(ベラからしたら救世主ですが、視聴者からすると危険人物です。)

それに対してベラは、はじめは否定的です。
「知らない人だし、安全じゃない。」
と断りますが、

「これも冒険だ」と、リスクを背負って了承します。

ここがとても重要なんです。

ベラの行動の動機は、主に自己判断によリます。
(それに周りの男たちは翻弄されまずが)
この行動は、抑圧されたことによる、反発が関与していると思います。
抑圧された環境の中で自己を見つめ直し、リスクを背負ってでも、欲求の優先順位の枠を飛び越え、”自己実現”するわけです。

これは、抑圧により「マズローの欲求階層」の均衡が崩れたことを示唆しているのです。


マーサと欲求の関連

ベラは船上で、マーサ・フォン・カーツロック(以下より”マーサ”と呼称)と出会います。
マーサはおばさんで淑女です。性行為は20年くらいしていないようです。
この頃のベラとは正反対で、ベラは自慰行為をアドバイスしてましたが笑。

また、ダンカンに海に落とされそうになった時、マーサには抵抗は見られず、「刺激的ね」と微笑んでいます。

これは、高齢者の欲望の喪失を表しており、ベラと対照的な関係にあります。
生への執着がないんです。
高齢になった時、やりたいことや欲しいものがなくなっていくとよく耳にします。マーサは欲求という観点で、とても重要な指標を示す役割があったと考えます。


欲求階層の再構築

終盤、マックスとの結婚式を挙げるベラ。
そこへ、ベラになる前の人格(?)の時の婚約者、アルフィー・ブレシントン(以下より”アルフィー”と呼称)が現れ、ベラはそちらの方へついていく選択をするのです。
そこは豪華絢爛な城であるのだが、何か不穏な空気感が終始漂う。
(ここはベラが生み出されたときの環境との対比構造になっている)

ある日、アルフィーが自分を薬で眠らせることを聞いてしまうベラ。
その後飲み物を飲むよう促されるが、抵抗します。

その時ベラは、(ニュアンスでしか覚えてないが)
「冒険はもういいかも」と言い、受け取った飲み物をぶちまけ、拳銃を奪い取ります。

ここがとても重要なシーンです。
この頃にはベラは、いわゆる”良識な社会”を冒険し、成長し変化を遂げた姿なのです。

この段階で、ベラは欲求階層の再構築がされていたのです。
実際に残酷な”良識な社会”に揉まれたことによって。

ベラはこの時、”安全を選んだ”のです。


以上が、マズローの欲求階層で紐解いた個人的な見解です。


余談:「哀れ」について

邦題「哀れなるものたち」にもあり、作中でもセリフとして度々出る、「哀れ」という言葉を掘り下げていきます。

記憶にある限りだが、主に2場面で使われていたと感じます。

”良識な社会”から見たベラに対して
これは、全体を通して、様々な人物からベラに対して発せられたものです。
ベラを取り巻くものたちがよく口にしていた、”良識な社会”という言葉。

社会と切り離された環境で育ったベラは、その社会に馴染めないことで、周囲から「哀れ」と罵られています。

貧しい人々を見て、今の自分(ベラ)に対して
船上で出会った黒人、ハリー・アストレー(以下より”ハリー”と呼称)に。「真実を見せる」と言われ、見せられたものは、貧しい人々。
それを目の当たりにしたベラは衝撃を受け、当たり前のように生活し、ふかふかのベッドで寝ている自分を振り返り、大泣きします。

これは恐らく、そんな自分自身を「哀れ」と思ったのだと思います。


彼らの言う”良識な社会”では、研究の好奇心に勝てずに非人道的なことばかりしている外科医や、ヤリ捨てしたりお金に目が眩むやつもいます。

何において「哀れ」と言えるのか。
誰がどのようなことに対して、「哀れ」と感じるのか。

ベラ自身も見方によっては「哀れ」ですし、
周りの奴らもベラや視聴者目線では「哀れ」に映ります。

特定の条件や要素はなく、この世界は残酷で、自然とは切り離された人間社会。そのひと個人の認識によって現実は構成されるため、総じてみんなが哀れである可能性がある、というニュアンスを感じました。
(正直、自分でもうまくせいりできていません。)

主人公ベラは特異的存在です。
中身は子供、身体は大人。現実には物理的に存在できません。

この最小単位が人間で構成された社会では、最終的には人間に依存せざるを得ません。
自分のことだって分からないことがたくさんあるのに、他人なんてもっと分かりません。
つまり、受け取り手次第であるということです。

ベラの脳みそが子供と理解して、最初から接する人なんていません。
社会に出た以上、見た目通り、大人として扱われます。

ベラが持つこのギャップは、現実社会に生きる我々が物理的に持ち合わせることのできない役割を持っているため、日々送る生活の中で抱える苦悩に”叶わぬ願いではあるが、社会に抗いたい心の素直な部分の投影”として、共感性を生んでいるのだと考えます。















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