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#髙橋海人のここ好き選手権の話

#髙橋海人のここ好き選手権

というタグをXで見かけた。

これは私も参加するべきか?

と思ったのだけれど。


いや待て140文字で?無理だろ

と思ってとりあえず一旦スルーした。

しかも”べきか?”と考える時点で、強要されてるみたいで違くね?

などと、団体行動がとことん苦手な壁になりたい系オタクはとりあえず逃げた。


けれど。

曲がりなりにも髙橋担の末席にたたずむ身としてはそそられるタイトルである。


ここ好き選手権。

なるほどね。

140文字。

その短さで書くなら…

廉くんに向けた「ん?」がまず候補として上がる。

不意に来るあれは殴られる。

軽いめまいはする。

いや待て、そんな細かいことを言っていったらキリがねぇぞ。

ということで却下。

そもそも演技とダンスのコンボで一発KOされた以上、やっぱりそこか?

でもそこはみんなが上げてくるとこだろうから、選手権に出場するにはすでに刻遅しでもはや候補案としてはなくね?

しかもそれこそ140文字じゃ無理だろ

などなど、ぐるぐる考えあぐねてXでは乗り切れず、結局noteにきて独り言をするという、典型的なこっち側オタクである。

私に瞬発力はまるでない。

だからこそ廉くんのあの類い稀なハイスピード感にめちゃくちゃ憧れている。



髙橋海人のここ好き選手権。

落ち着いて考えると、やっぱり演技とダンスで沼った私としては、その表現力が第一等であろうかと思う。

たぶん、演技とダンスは、何かを表現する、という点でとてもよく似ている。

海人くんの踊る姿を見ていても、演技を見ていても、それを感じる。

今の時代ダンスの上手な人はそれこそたくさんいる。

私は専門的な知識は皆無なので、単純に自分の感性だけで見ているけれど、それでも一般的に言われる”上手い”も多少は分かる。

たくさんの凄い人たちを見ているけれど、なんでこんなにも海人くんのパフォーマンスには心が動くのだろうと、何がそんなに違うのだろうと、とても不思議で仕方がない。

不思議で仕方がなくて、このところしょっちゅう考えていて。

例えば、ほんの僅かに内側に折れる膝だとか。

可動域が広く滑らかに動く肩甲骨だとか。

本当にちょっとした動きが、その角度が、間が、表情が、とことん癖に刺さりすぎて、もはやわけわからないまま好きを叫びたいことも多いのだけれど。

インスタでのNOPPOさんとのあのパフォーマンスを見て以来、なんとなく、これも一つの要因かもしれない、という特徴に気づいた。


よく言われる”ダンスの上手な人たち”は、高い技術を持ってかっこよく踊っている。

海人くんのダンスは、そこに”演じる”、がプラスされていて、どちらかというと、それの割合が大きい気がするのだ。

どんなジャンルを踊っているにせよ、”かっこよさ”とか”カッコよく見せる”に重心がない、というか…。

もちろん、完全に私の肌感覚に過ぎないのだけれど。


素人考えで本当に恐縮だけれども、”踊る”ということに、”技術的なことを見せる”、”かっこよく魅せる”、プラス、”曲を表現する”、という側面があるとして。

海人くんのそれは、他の同年代の人より、表現、という部分への比重が圧倒的に大きい気がするのだ。

音楽を演じてる。

と言っていいのか分からないけれど、他に言いようが見つからない。

丁寧に、とても丁寧に、1本の映画でも撮るかのように、その1曲に向き合って、音楽という役を演じているように見える時があって。

若い子たちにありがちな、こんな凄いダンスできるんだぜ、とか、こんなダンスも踊れちゃうかっこいい俺、的な、自己顕示がないと言うか…。

私に刺さるのは、それじゃないかな、という気が、最近、している。

圧倒的な表現力がありながら、表面を覆っているのが自己顕示ではなく、音楽の可視化に近いような…。

だから、時折、”祈り”を思い出させるんじゃないかなと。

だから、大人っぽい曲で踊ればとことん色気が溢れかえるし、キラキラ曲を踊ればキラキラが溢れるんだろうと。

そうでない時は、もうどストレートに”楽しい!”が全面に溢れかえっている。

それはそれで、やっぱり”技術的なことを見せる”、”かっこよく魅せる”、という側面よりも、”感情を表現する”、という方が圧倒的に比重が大きいということになるので、やっぱり一言でまとめると”表現力”なのかもしれない、などと思っている。


もう一つは日本人離れしたリズム感。

以前にも書いたのだけれども、海人くんが英語で歌うパートはちょっとびっくりするくらいネイティブに聞こえる。

発音が良いとかそういうレベルではなく。

日本語と英語の根本的な抑揚やリズムの違いを、スイッチで切り替えてるくらいの勢いで日本人臭さが消える。

小さい頃から洋楽しか聞いてこなかった、という話を聞いて、でしょうね!!と思ったくらいだ。

あれは即席の付け焼き刃ではあり得ないと思っていたから、めちゃくちゃ納得した。

一応これでも帰国子女の端くれで、耳だけはそれなりのつもりなのだが…どうだろうか。


言語の抑揚、リズム、イントネーションは、きっと、音楽であり得るのだと思う。

友人に、プロ並みのピアノを弾く人がいたが、彼の英語もまた、歌うように綺麗だった。

言語と音楽は親密な関係なんじゃなかろうかと、勝手に思っていて、彼らは、耳に入ってきた音をそのままのリズムで抑揚で口から出せる、体が一種の楽器のような人種なのだと思う。

多分海人くんもこれじゃないかなと密かに思っている。

だからあれほどまでに若林さんの喋りをコピーできるし、ドラえもんにもなれるのだろう。

ついでに海人くんの場合はそのリズムを抑揚を、そのままに体を動かせるのだと思う。

だから海人くんの動きで音楽が鳴っているんじゃないかと思うほどに、彼の体は音でできているんじゃなかろうかと思うほどに、音楽と融合するんだろう。


なんてことを、最近考えていた。

ので。

これを私の髙橋海人のここ好き選手権への提出案件としたい。


このまま書き続けろと言われればまだまだ書き続けられる気もするが、とりあえずはここらで終わっておく。

読んでいただいたどなたかに、わかる〜!などと感じていただける人がお一人でもいらしたら幸いである。


<追伸>

全く関係ないのだけれど、海人くんの演技はエドワード・ノートンのそれに似てると思った人はいないだろうか…。

個人的に海人くんのあの奥行きのある演技を見ていると思い出すのがエドワード・ノートンなのだ。

年齢がバレる気がするけれど、この際まぁいい。

とはいえ、私もそこまで世代なわけではないことは一応添えておこう。

元洋画房と言っても私が見た映画の本数もたかが知れれいるし、本当に感覚の話でしかないのだけれど。

どことなく、海人くんの演技は、「真実の行方」のときのエドワード・ノートンを思わせるのだ。

「真実の行方」を見たのも相当前だけれど、めちゃくちゃ印象に残っている映画で、とにかくエドワード・ノートンが桁違いに圧巻だったので、ものすごく記憶に残っている。

ラストシーンは何回見たかわからない。

あのエドワード・ノートンは、本当に、頭おかしいレベルですごい。

あの滲み出るリアルさというか、本当にそういう人だと思わせる何か。

それこそ、表現力、としか言いようがない気がする。

良くわからないけれど、そういうもの。

海人くん演技は、どこかあの時のエドワード・ノートンを私に思い出させるのだ。

ちなみに、「真実の行方」はエドワード・ノートンの映画デビュー作である。

初めて映画に出ていきなりアカデミー助演男優賞にノミネートされ、ゴールデングローブ賞では助演男優賞を受賞している。

その後も多数出演作はあるけれど、この「真実の行方」と「ファイトクラブ」の時は、映画の良さも相まって、とにかく圧巻だった。

正直主演のリチャード・ギアもブラット・ピットも圧倒してた。

実は密かにあれに似た感動を、海人くんが運んできてくれる気がしてならない。

海人くんが誰をも圧倒するような役を数年の内にやってくれるんじゃないかと、勝手ながらものすごく期待している。

アーティストとしての活躍ももちろんだけれど、役者としての活躍も、全身全霊で待機中である。

どうか良き出会いに恵まれますように。

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