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2024.6 知覧特攻平和会館

しとしとと雨が降り注いだその日、私は人生で初めて知覧特攻平和会館を訪れた。

24年前の夏、父は一人でこの場所を訪れ、3時間も4時間も、その場から動くことが出来なかったそうだ。思えば父は「日本人が一度は訪れるべき場所なんだ」、と幼い頃から私や弟を靖國神社へと連れて行った。

当時小学生だった私は、展示内容を見て漠然と怖さのようなものを感じ、あまり直視出来なかったことを今でも覚えている。

何の巡り合わせか、弟が鹿児島の大学へ進学したことがきっかけとなり私は、南九州市知覧へ足を運ぶこととなった。

知覧特攻平和会館

知覧は、広大な茶畑が広がる自然豊かな町である。
耳にイヤホンをあて、後部座席から窓の外を眺めていたが、正直な胸の内は、「行きたくない」であった。
行きたくないというのは、自分が大泣きしてしまうことが分かっていたこと、あまりにも非道な作戦の記憶であり直視できる自信など待ち合わせていなかったから。

そんな胸の内を知ってか知らずか、父は道沿いの石灯籠について説明を続けた。

駐車場に着き、車を降り、平和観音堂へ参拝をした。
さあ会館へ入ろうか、という時に父が三角兵舎の説明を始め、復元されたその中へ歩みを進めた。

そこは、特攻の数日前から隊員が最期を過ごした場所で、なでしこ隊と呼ばれる女学生たちが奉仕をしたそうだ。そこで初めて白黒写真の特攻隊員達を見た。
彼らは笑っていたが、私にはそれがとても辛く、家族の前では泣くまいと我慢していた涙が溢れ、止めることができなかった。(平和観音堂では泣くまいとするあまり興味のないような態度を取っていたらしく弟にツッコミを入れられた)

館内に入ると、出撃順に特攻隊員達の遺影や遺書が展示されていた。

これだけの人がお国のために、大切な人を守るために、と大空に散ったかと思うと、今ある日常は彼らによるものであると実感したと同時に、涙が止まらなかった。

中でも印象的で、読んだ瞬間に涙が止まらなくなってしまった遺書がある。

昭和20年4月12日に出撃した穴澤利夫少尉が、
婚約者である智恵子さんに残したものだ。

「あなたの幸せを希う以外何物もない」から始まるそれは、最初こそ彼女の幸せを願っていることが書かれていた。

しかし、「ちょっぴり欲を言ってみたい」と、最後の最後には
「智恵子 会いたい、話したい、無性に」とあった。

いま思い出していても、涙が出てくるそれは、
あまりにも彼の心からの言葉であった。


戦争を知らないわたし

知覧特攻平和会館から、そして鹿児島から帰宅した私は、今、心から行って良かったと感じている。

正直に言えば、今もあの時見た景色や感じた空気を忘れられずにいる。感傷に浸っていると言えばそれまでだが、生涯忘れることはないだろう。

年齢が変わらない少年、青年が、懸命に守り抜いてくださったこの国で毎日を大切に生きること、
戦争について正しく理解し、語り継いでいくこと

これこそが、今を生きる私達にできることだと考えている。

大人になりきれていないような、21才が何を、と思われるかもしれない。

ただ、彼らがいた。という事実を絶対に忘れないでいたい。

2024.6.12



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