見出し画像

その歌声はどこから来るもの

私は話す時と歌う時で、全く別人の声が出る。

普段生活していて、声を出しても女性として疑問に思われたことは一度もない。それが「歌」になると一変し、性別不明になる。しかも声域は男性なのだ。昔ボイストレーナーの下に通ったことがあるのだが、彼もその様子に息を飲み「歌い出した瞬間、鳥肌が立った。さっきまでの君が消えて、性別も誰なのかさえも何も分からなくなった」と言った。海外から通いに来る弟子もいるほど数多くの教え子を見てきた実績ある人が、開口一番にそう言うのだ。

我が身体ながら自分でもなぜそうなるのか仕組みがさっぱり分からない。そのため、自身の歌声が長い間コンプレックスだった。自分の特殊な声に向き合うのが嫌で、ボイトレもすぐにやめてしまった。

そんな状況でも歌が嫌いになることは決してなかった。むしろ昔から大好きで、コロナ前までは週に3,4回は一人カラオケへ行っていたぐらいだ。男性歌手の曲でさえキーを下げなければ歌えないことも多々あるけれど、誰の目も気にせず好きに歌える時間は至福の時だった。

画像1

そんな私も数年前、勇気を出して人前で歌ってみたことがある。結果、その夜は私が話題を攫ったと言って差し支えないほどの大反響だった。イベント後には握手を求める人達が集うほどの人気ぶり。他の参加者にもプロの歌手だと思われていたので「私、一人カラオケで歌ってるだけで人前は今晩が初めてです」と訂正しなくてはならなかった。そしてその事実を伝えると勿体ないと頻りに惜しまれた。そこでも私は「話すと普通の女性の声なのにね」と不思議がられていた。

成功体験と言っても良いであろう夜を経ても尚、自身の歌声を受け入れることは難しく、人前で歌うことはその一度きりになっている。

一体、何がそんなに嫌なのだろうか?

恐らく自分の表現したい音は女声によるものだったのだと思う。身体的性をそのまま使えば、それは上手かろうが下手だろうが誰にでも手に入れられる普通のことなはずだ。その普通がなぜ自分は叶わなかったのか?歌うことが好きで才能もあったからこそ歌うたびに苛立ちを覚えた。こんなよく分からない個性を私は望んでいなかったのだ。

画像2

2019年3月、歌手のiriに出逢って少し自分の中で風向きが変わった。
彼女も声が低く(それでも私より声域は大分高いが…)、最初に聴いた時は男の子が歌っていると思ったという感想をよく見かける。MVを見てもまだ信じられないという人までいるくらいだ。初めて自分と似た特徴を持つ人を客観的に見る機会に恵まれ、彼女の声の心地良さに慣れ親しむ内にだんだんと心の氷が溶けて小さくなっていった気がする。

それから少し経ち、周深を知ることになってそれが加速した。
彼の高く澄んだ歌声は独特で、それこそ姿を見るまで女性かと思っていたという声が多くみられる。私も最初こそは驚いたけれど、聴いていく内にそういった諸々がくだらなく思えるようになってしまった。彼はもはや女声とか男声とかの問題ではなく、周深そのものなのだ。

周深は今、中国ポップス界の人気歌手ですが、その歌声については賛否両論があります。「透明感があって、本人の心と同じで澄んで美しい」と絶賛する声もありますが、一方で「あまりにも女っぽくて男性的なたくましさがない」という批判の声もあります。これに対して本人は「歌声は気にしないで、音楽自体を評価してほしい」とコメントしています。(中国国際放送局記事より)

周深は、女性のような高い声をからかわれ、音楽が好きでありながら人前では歌いたがらなかった過去を持っている。そういうものを乗り越えてある現在の彼が、自身の歌声にコンプレックスを持ち人前に出るのを極端に躊躇う私に響いたのは当然のことだと腑に落ちた。

今では周深は、彼自身のユニークな声をいつでも楽しんでいるように見える。そしてそんな彼の姿を見ると、私の中で新しい何かが芽生えるような感覚が生じる。

画像3

私の声の特徴とは何だろう、とここで改めて考えてみる。

一つ目は、冒頭に述べたように話し声と歌声とで別人並みに異なるということだろう。例えば前出のiriは喋る時と歌う時で声の印象が完全に一致している。私の場合、普段は女声、歌声は性別不明、声域は男声というのが最も的確な表現だと思われる。

二つ目は、状況や聴き手によって「性別不明」の内容が変わるところな気がしている。女性のように聞こえる瞬間もあれば男性のように聞こえる瞬間もある玉虫色のこともあれば、男でも女でもない(無性)ように思える場合もある。あるいは男女どちらの要素も同時に含んでいる(両性)、二つの性の中間に感じられる(中性)、など。これは自分自身では分からないが、観察していくとどうもそのような傾向にあるようだ。

三つ目は、声域は男性のものなのに意外にも声そのものは低い印象を持たれないこと。恐らく低く聞こえないタイプの声質なのだろう。低い声だとみなされる女性歌手(iriやDua Lipaなど)でも声域は女性のものなので私は歌えないが、不思議なことに歌声そのものは彼女達の方が断然低く聞こえるのだ。この辺りが二つ目に挙げた無性/両性/中性に繋がるポイントになっているのだろう。

私の性自認は女性と無性の間を行き来している(Xジェンダーの不定性とも言える)ので、このことはある意味では好ましいのかもしれない。ただそれと同時に、私の身体的性と性表現は女で確固として揺るぎがない。(先ほど述べた「自分の表現したい音は女声によるもの」はここに通じる。)私にとって歌は性自認ではなく性表現の管轄だ。その辺の不一致がまた一層悩ましく思う種だったのだが、この点については放念した方が落ち着くべきところに落ち着くのかもしれないと今では思っている。

画像4

ところで最近、歌と脳に関する話で面白いことを知った。

言語中枢は基本的に左半球にあるとされていて、その言語中枢にはブローカ野と呼ばれる領野がある。ごく簡単に言うと、ブローカ野とは喉、唇、舌などを動かして言語を発する役目を担うところだ。

言葉を発するという行為そのものは、左右対称的に神経支配を受けた(発声・発音に関わる)筋によって生成されるが、プログラミングは通常一つの側で行われる。ブローカ野が左にあることからも分かるように「話す」行為を統御するのは左半球である。それに対し、「歌う」行為をコントロールしているのは左半球のブローカ野に相当する右半球の領野になるのだという。

話す=左脳 / 歌う=右脳

私が言葉を発する時に、同じ身体の同じ器官(喉、唇、舌など)を使っているのにも関わらず「話す」と「歌う」で音が全く変わるのは、司令塔となる脳の大元が二つの行為で異なることに通じるのではないだろうか?同じ楽器で演奏しても、奏者によって全く音色が変わるのと同じように。そう考えると、自分が体験していることが非常に興味深いもののように思えてきた。

もちろん安直な関連付けをして納得するのは軽率だし慎重になるべきだが、歌声と話し声が別人となる自分と上手く付き合えなかった私にとって、そういう物の見方もあるのかと目から鱗だった。

画像5

私は「ない」と思うものにフォーカスするあまり、自分が持っているものをないがしろにし続けてきたのではないだろうか。長きにわたる様々な段階を経て、このままでは勿体ないし何より悲しい、とようやく思えるようになってきた。

現在はコロナ禍で大好きな一人カラオケに行くことも難しくなってしまった。一度だけ落ち着いた時期に自分でマイクと消毒液を持ち込みの上、開店直後の換気バッチリの時に行ったこともあるが、現在の状況ではそれすらも厳しくなっている。都会の住宅街、しかも集合住宅に暮らす身としては生活の中で歌う場所もない。どうしたものかな、と思い悩んでいるところだ。

画像6

私は基本的に、自分一人で歌って完結する独唱が好きだ。でも、いつか自分と似たような性質を持つ人と一緒に歌ってみたいなぁと密かに思い始めている。特に身体的性が男性の人が相手だったら、デュエットの概念が根底から覆されるだろう。肉体的には男性と女性から生み出される音なのに、男声も女声もない世界が繰り広げられるのを想像するだけでワクワクしてしまう。

あと、子供の時にやっていた一人遊びを音にのせてみたらどうなるのだろう?ということにも関心がある。大人となった今では昔のように紡げないかもしれないけれど、それはそれで良い。

ここには書かないが他にもやりたいことは沢山あるので、自分に備わっているものを生かして貪欲に楽しんでいけたらいいなと思っている。


画像提供元:Jr KorpaMatthew Henry
(※フリー画像を使用しております)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?