見出し画像

言語の役割を持たない言葉たち

意味のない音の連なりを紡いで、一人遊びしていた子供の時の話。

私は母語の習得・確立をさせる時期に日本を離れて住むことになり、それまで親しんでいた日本語とは何もかもが全く違う言語を習得していかなくてはならなくなった。(当然ながら全く違うのは言語だけではなかったが、ここでは割愛。)身体から紡ぎ出される音はもちろんのこと、文字、決まり事や仕組み、好まれる語感、もっと言えばものの見方すらも違ってくる。

自分の中にある二つの言語は、あまりにも遠く交わらなかった。私が使う二つとはまた違う言葉を操る、華人の友人達が内輪で話す中国語も不思議だった。どれもが全然違う。

その中で私がすごく気になったのは、言語があることによって出せる音の限界が決められてしまっているように見えることだった。当時の私にはまだ気軽に行き来できる境界を、大人達は決して越えることが出来なかった。

もっと音の世界は広いのに、と残念に思った。

言語という枠に閉じ込められてしまった、音と響き。その枠を外すと、身体から生み出せる音の可能性はどうなるのか?そんなことを夢想し始めた私は一人で色んな口や舌の形、息の出し方、鼻の奥や喉の使い方を思いつく限り試すようになる。そして一つ一つ工夫して音を見ていく内に、それらを連ねていくことに歓びを覚えていった。

そこにあるのは純粋な音の響きと連なり。意味は必要なかった。言葉は伝達の手段として生まれたものなのに、その役割から解放された意味なき言葉を紡ぐ。

そういう遊びをして過ごしたのを、今も時々思い出す。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?