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ことば、音と言語①

言語として認識するためのスイッチを切れば、日本語も英語もただの音の連なりにしか聞こえなくなる。

高校時代、通学電車の中でそのスイッチを切って全てを「ただの音」にしてしまうことが時々あった。その瞬間、私は日本語を解さない存在になる。耳に入るそれらを解読する機能を停止させると、純粋な「音」に戻る。人間の口から発せられる響き。抑揚。リズム。とめどなくなく変化する音のやり取りがあちらこちらで行われているのを聴いていると、普段は私もそれらの音を出す側に含まれているのが何だか不思議になる。

ある日、教室で友人にその話をしたら「器用なことするね」と言われた。最初は彼女の言っている意味が分からなかったのだけど 曰く、やろうと思っても勝手に言葉の意味が入って来てしまうらしい。私と友人、どちらが多数派なのかは分からない。でも少なくとも私にとっては、母語である日本語であっても言葉を理解するためには集中と緊張がそれなりに必要で、耳に入ったそばから勝手に意味を認識してしまうほどの気楽さはない。いくつかの条件が重なれば、音を言葉として変換できなくなってしまうことだってある。スイッチを入れていても、接続が切れたり不安定になったりするのだ。

そこまでいかなくとも、日常的に少しずつ消耗することは確かなので私は口頭でのコミュニケーションを避ける傾向にある。そして、私はそのことで少なからず生き辛さを感じている。(もともと人との交わりが得意でないことも大いに関係していると思うけれど。)

でも直に繋がっていないからこそ、自分が普段使っている言語の音の世界を漂ったり観察したり出来るんだと思う。その面白さをちゃんと大事に感じていけたらいいな。自分自身のために。

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