読書会に参加して、読書会について思うこと

一昨日、ある読書会に参加した。下北沢ダーウィンルームで定期的に読書会を企画している住田朋久さんからのお声がけで、「キュレーター(進行役)」という立場で参加させてもらった。

取り上げた本は、昨年末に出た、『心にとって時間とは何か』(青山拓央著、講談社現代新書)。精読したいと思いつつ初読のままだったので、「読書会をやりませんか?」というオファーは渡りに船だった。何度か通読し、自分なりの「読み」を深めてから読書会に臨んだ(同書の精読メモ)。

読書会には、10数名の方が来られた。編集者、作家、芸術家、研究者など、何かを自ら作る・書く立場の人が多かったように思う。そのためか、一人一人からは、自身の専門性の滲み出た、興味深い感想を聞くことができた。圧倒的に時間が足りず、一人数分ずつしか発言を聞けなかったのはもったいなかった。

「読書会」はブームだという。一昨日の参加者のなかにも習慣的に種々の読書会に顔を出しているという人がいたし、自ら主宰している方もいた。私自身はそれほど参加した経験はなかった。今回やらせてもらってみて、思った以上に楽しかった。一昨日の催しが成功だったかどうかはともかく、読書会の愉しみとポテンシャルの一端を感じた。

同時に、自分の場合は、読書会への参加は年に数回くらいがいいかも、とも思った。もちろん、読書会に何を期待するかは人それぞれだろう。以下、今回の経験を通して「読書会」について私個人が感じたことをメモしておく。

読書会の魅力

読書会の魅力とは、ある本の自分の「読み」を人に伝え、人の「読み」を教えてもらう機会を得られることだろう。

著者は、読者に何かを伝えるべく本を書く。出版された本は、池に投げ込まれた石のように、水面に波紋を広げていく。誰にも気づかれず静かに沈んでいく石(=売れない・読まれない本)もあれば、大きな音を立てて着水し、水面を波立たせる石(=売れる・読まれる本)もある。波がかき消される前に、なるべく多くの人に届いてほしい。そして、できれば感想を聞きたい。自分の投げた石が、読み手にどんな影響を与えたかを知りたい。著者にとっての切なる願いだろう。

しかし、読者の立場でも稀に、この願いを著者と共有することがある。場合によってはその気持ちが著者を上回ることすらあるかもしれない。ヤバい本を読んだ。誰かに語らずにはいられない。ぜひ読んでほしい。なんならブームを巻き起こしたい。そして、多くの人の感想を聞きたい。こんな気持ちになった読者が、自ら小さな波源となり、感想・批評などを発信する。そうすれば、最初の波紋を増幅し、余波を広げる手助けになる。

思うに、読者のこの願いをかなえるのが「読書会」ではないだろうか。自分が語りたい本を読んだ人が、なんと一堂に会する。そこでは、自分の「読み」を聞いてくれ、人の「読み」を聞ける時間がある。楽しくないわけがない。

さらに読みを深めるために

一方で、読書会には限界がある。時間だ。あるところで会は終了する。Aさんの話が聞き足りないかもしれない。会で話題にされた内容が、自分の関心と微妙にずれていたかもしれない。それでも読書会は終わってしまう。

ならば、読書会が終わってからも読書会を続けるしかない、と思う。読書会を経て、自分の「読み」がどう変わったかを、tweetしてみる。あるいはブログに書いてみる。もしかしたら、誰かがコメントを返してくれるかもしれない。タイムライン上で、「終わらない読書会」が始まるかもしれない。

もちろん、現実はそううまくはいかなくて、ネット上に書き込んだ本の感想の多くは、何の余韻も残さず忘れられていくだろう。目の前の誰かが必ずリアクションをくれる読書会のほうが良い点もたくさんあるはずだ。

本を本当に深く読むには、他人の「読み」に触れることが不可欠だ。そのためには、ときとして自分自身が波源となり、他人のリアクションを引き出す努力が必要となる。私自身、面白かった本についてはブログに詳しめの読書メモを残すようにしているが、理由の一つは読者を一人でも増やし、「私はこう読みました」という感想を引き出したいからだ。

ネット上での発信も、読書会も、読みを深める技法としてはそれぞれに良さがある。これからもブログとtwitterを軸足としつつも、「これは」という本の読書会には、積極的に行ってみたいと思う。自分で開催することも考えたい。

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