無題

インフルエンザと+2度の世界

今日、インフルエンザの予防接種を受けてきた。

会社を抜けてきた大人たちが列をなし、手際よい案内係のもと、検温、問診、ワクチン接種を済ませていく。こうして、人口の一定数が抗体をもつことによって、インフルエンザ大流行の確率が下げられる。素晴らしいことだと思った。これを可能にした医学も。公衆衛生も。

同時に思った。インフルエンザの対策はこんなにちゃんとできるのに、こと気候変動対策になると、僕らはまったくコレクティブ・アクションがとれないというのは、どうしたことなのだろう。

一つには、経験の有無があるだろう。僕らは、個人レベルではインフルエンザに罹ったことがあるし、社会としても疫病の大流行を経験してる。それに対して、全地球の平均気温が2度上がった世界は知らない。想像できない。

しかし、本当は、想像できないこともない。少し検索すれば、温暖化で世界がどうなるかについてのシナリオはたくさん出てくるはずだ。でも、僕らはそれを見ようとしない。見たくないのだ。

なぜ見たくないのか。インセンティブの問題があるように思える。たとえば、中央省庁で温暖化対策を行う官僚の方や、気候変動の研究をして論文を書く人、あるいは新聞記事や雑誌の原稿に書いたりできる人であれば、それを考えることに有形無形の報酬があるだろう。一方、それ以外の大多数の僕らにとっては、気候危機について考えることは、何の(経済的・心理的)報酬ももたらさない。

もちろん、誰もがこの問題から目をそらすという状況こそが、僕らの近未来をますます暗いものにする。それでも、自分だけがそれを考えると、自分だけが過剰に暗くなる。考えるだけ「損」だ。このような構造をもつ問題のことを、「不都合な真実」とよぶのだろう。

僕はいま、このnoteで何をしているか。さっき予防接種の会場で気候変動について少し考えてしまったことの「元をとろう」としているのだ。この記事も、多少なりともページビューを得るだろう。それをもって、自分の「報酬」にしようとしている。

気候変動への対策が進まない最大の理由には、この囚人のジレンマ的状況があると思う。状況を好転するためにできるのは、まず、少しでもロングスパンでものごとを考えてくれた人に対して、何らかの「報酬」を与えることだろう。「ページビュー」や「いいね」でいい。「そんなこと考えてもしんどいだけだよ」などというのではなく、敢えて思考のリソースを割いてくれたことに、素直に感謝したい。

あと、手元に『環境ナッジの経済学』という本があるので、これも読んでみようか。



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