2022/4/23

昨日の夜、3回目のワクチン接種をした。工場のレーンに乗せられたクリームパンのパンの部分みたいな感じで、床に貼られたテープに沿って歩かされているうちに、気付いたら針でモデルナという名前のクリームが腕に注入されていた。ラブ注入。お陰で今日は朝から体調が死んでいる。この文章を読んでもらえばお分かりかと思うが、精神もハイ気味である。何か変なものを打たれてしまったのかもしれない。発熱も相応にあり、頭も回らず、身体も気怠いので、朝からベットの上で最近ハマっている「きのう何食べた?」のシーズン1の未視聴分を消化した。

さて、本ドラマをご存じない方のために、以下、軽く説明しておこう。「きのう何食べた?」とは、よしながふみ原作の同タイトルの漫画をドラマ化した作品で、西島秀俊演じる弁護士のシロさんと、内野聖陽演じる美容師のケンジという中年カップル二人の日常を、シロさん手作りの料理を二人で分け合う行為を中心として描き出したハートフルドラマである。2019年頃からテレ東系列で放送されていたらしい。登場人物の名前からお分かりかと思うが、この二人は同性同士のカップルである。二人ともノンケとして自己を偽って生きることとは決別し切り、一人の同性愛者として、残りの人生を自分の「老い」と向き合いながらどうやって生きていくのかという点に漠然とした不安感を抱えながら日々を過ごしている。

ついでに、参考までに本作のキャラクターの話もしておく。シロさんは、町の小さな法律事務所に勤める雇われ弁護士だ。職場ではゲイである事は隠している。高給取りになる事よりも私生活を優先する彼は、毎日定時で職場を離れ、月の食費を2万5000円以内に収めようと、仕事帰りに近所のスーパーで値下げ品を物色して帰ることをルーチンワークとしている。堅実かつストイックな印象を与える彼だが、自分の外見や趣味がゲイらしくない事に対してコンプレックスを抱き続けていたり、法律相談を持ち掛けられた顧客を上手くかわすことが出来ないなど、体裁を繕うことが上手いように見えて、実は内面の揺れ動きに激しい部分がある。そんな彼は、毎日恋人であるケンジよりも先に帰宅し、二人分の夕食を準備してケンジの帰りを待ち侘びるささやかな生活に幸福を感じている。

さて、ケンジは、シロさんとは打って変わって開放的な雰囲気の人間である。美容学校時代の同級生が経営する美容院のスタッフとして、その持ち前の人当たりの良さと明るさで一目置かれた存在である。ジャニーズとピンク色と桃とシティーハンターの冴羽獠を愛し、また、将来のために倹約を重ねるシロさんとは異なり、宵越しのカネは持たないのが彼の信条である。職場含め、ゲイである事は周囲にカミングアウト済みであり、自分が他者からゲイとして見られる事に上手く折り合いが付けられないシロさんの不器用さとは対照的に、ある種自分のゲイとしてのアイデンティティを受容し切った印象を与える。一見ひょうきんな雰囲気をまとった彼だが、根がきわめて繊細で気が効くせいか、シロさんの期待に応えられない(と勝手に自分で思い込んでいる側面も否定出来ないが)自分に対する自己嫌悪も強く、時たまシロさんの態度をめぐって感情を抑え切る事が出来ない面も見られる。

このドラマを見ていて印象に残った点、それは、食事というものがお互いを大切に思う気持ちを上手く言葉に出来ず、時には衝突してしまう二人の不器用さを和らげる緩衝材的意味合いを帯びている点である。私自身、仕事で帰宅が遅くなった際に、自室に籠って一人で夕飯を食べながらこのドラマを見ていたからこそそう感じられる部分があったのかもしれないが、一緒に同じテーブルにつき、同じものを口に運ぶという共通体験を経ることが、血の交わらない人間同士がコミュニケーションを行う上で、どれだけ重要なことであるかをあらためて痛感させられた。やっぱり、誰だって腹は減るのだ。職場でトラブルが起きてウンザリしようが、交際しているパートナーが浮気しているような素振りを見せようが、自分たちの愛の「普通さ」を異様なものとして社会から批判されようが、どんな時も結局腹は減る。喧嘩をした時も、相手の事が信じられなくなりそうになった時でも、決まって彼らは「なんだかお腹が空いたね」という共通言語の下で、毎日同じテーブルにつく。この愛しさは一体なんなんだろうと思った。シロさんが作った料理を満面の笑みで頬張るケンジ、そして言葉数は少ないものの、そのケンジを眺めながら口元を緩めるシロさんの姿を見ていると、平和な日常を維持するためには、他人同士の相容れなさを超えていかに共にあるべきかという点に思いを馳せなければなれない気持ちに駆られた。

もう一点。結婚の問題である。作中では、遺産分与の関係で養子縁組を結ぶ相談をシロさんに持ち掛ける同性カップルや、シロさんとケンジが二人で指輪を買いにジュエリーショップに足を運ぶシーン(元々のきっかけは、シロさんが職場関係の結婚式の集まりに参加した際に、結婚指輪をつけていなかったがゆえに多くの女性に言い寄られた点が背景にある)があった。もちろん、これらのシーンは、遠因として、同性間のパートナーシップに婚姻が認められていない点があるがゆえに生まれたものとして捉えられるであろう。

私自身、性的マイノリティの人々の婚姻については賛成だ。というのも、法・社会制度的に保障される立場を獲得せねば、その先には進めないからだ。「その先」とあえて書いているのは、いかなる性的立場の人々であれ、人間同士のパートナーシップの在り方がどうして「婚姻」という終着点に強制的に結び付けられるきらいがあるのかという点に疑問を抱いているからである。この社会はヘテロセクシュアリティを基準に設計されており、このセクシュアリティから外れた者については、古くは監獄やら病院といった諸々の抑圧機構に送り込む事で、ヘテロセクシュアリティという型に合致するよう再訓育を施してきたわけである。私が一番言いたいのは、現代の性的マイノリティの人々の権利運動が、もしも逆説的にヘテロセクシズムの強化に繋がる例があるとすれば、その終局には婚姻というものが存在し得るのではないかということだ。だから、性的マイノリティの人々の婚姻の自由を獲得する運動に成功したとして、そこで止まってしまっては元の木阿弥なのではないかと考えている。

だが、このドラマを見ているうちに、こうした考えは、婚姻という社会的結び付きを純粋に希求する当事者の思いとはかけ離れた、それこそ部外者による部外者のための机上の空論に過ぎないのかもしれないと感じるようになった。愛する人と結婚し、家族になり、ゆっくりひそやかに暮らすことが当事者の望むことであったとしたら、すなわちそうした日常性の温かさや当事者の切なる思いや声を、クソデカ理論が圧殺していたとしたら、それこそ元の木阿弥である。理論って何のためにあるんだろう。理論で、誰か一人の幸福を守る事が出来ないとしたら、真に理論をやる意味はあるのだろうか。シロさんとケンジがスーパーの帰りに肩を並べて商店街を歩くシーンを眺めていると、ふとそんな事を思った。一人で食べるご飯は冷たく、悲しい。私もいずれ誰かと一緒にご飯が食べたい。おわり。

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