写真よさようなら

わたしは写真が嫌いだ。いや、嫌いだったという表現に変えておこう。最近は少しずつ苦手意識を克服出来ているせいか、自分でもカメラを構えるようになったし、写真展にもたまに足を運べるようになったのだから。

振り返ってみると、どうしてわたしは写真が苦手だったのであろうか。写真を撮るのも、撮られるのも得意ではなかったが、どちらかというと自分が被写体になるのがめっぽう苦手であった。カメラを向けられると、なぜか身体が勝手にカメラを避けようと動き出してしまうのである。学生時代を思い返せば、集合写真に写ることへの嫌悪感のあまり、撮影時間をすっぽかして帰宅した事ぐらいザラにあったと思う。教師に怒られた事もあっただろうか。人間の頭というものはやけに上手くできているもので、都合の悪い事はほとんど記憶に残ってくれないものだ。忘却、これこそが人間が有する最良の知であるとわたしは信じてやまない。

とにかく、今も昔も、特定の集合体に属している自分というものが可視化されている様子が視界に入ると、たまらなくイヤになるのだ。カメラのレンズに捉えられたわたしは、わたしであって、わたしではないものに変質してしまう。写真に写ったわたしの姿を見ていると、他者の中に属する「もの」として固定化され、蜘蛛の巣に絡み取られて身動きが取れなくなるような苦しさを覚える。できることなら、蜘蛛の巣を解体し、無名性の海に飛び込み、跡形もなくこの場所から消え去ってしまいたいと思うのである。蜘蛛の巣に捕らえられた蠅から、蜘蛛の巣に捕らえられた蠅を眺める何者かへのメタモルフォーゼ。蠅はいつの間にか蛹に変容し、蝶として墓場の間を融通無碍に羽ばたく自由を手にしてくれるのだろうか。

こんなわたしであったが、いつの間にか心の惹かれる対象に出会うとシャッターを切るようになっていた。誰かがわたしを変えてしまったのだ。きざな言い方をすれば、恋に落ちたのである。わたしに変化を引き起こした触媒の正体は複合的であるがゆえに未だに上手く掴めないが、一つ思い当たるものといえば、荒木経惟の存在を挙げるべきなのかもしれない。

以前、荒木経惟が愛妻である陽子の手料理を写した『食事 The Banquet』に収められた数枚の写真を目にしたことがある。食事の写真なんて、SNSなりグルメサイトをチラリと覗きでもすれば、怒涛の勢いで否応なく目に押し込まれるものだ。他人の「これを食べたい」という欲望を、まざまざと見せつけられる暴力。ポルノ画像が市場に出回る事を不健全であると非難する大人たちは、同じぐらいの声量で、無節操にインターネットを飛び交う食事の写真についても怒鳴り散らしてみればいいのに。

こうした写真とは打って変わって、荒木の写真はとにかく衝撃的だった。世界がひっくり返るような感じがした。余命幾ばくもない妻の手料理をクローズアップで撮影した荒木の写真は、食材の湿り気やぬめり、光沢を生々しく捉えており、グロテスクかつどこかエロティックな印象を与えるものであった。同写真集に綴られた「食事は、死への情事だった」という荒木の言葉は、バタイユでいえば「エロティシズムは、死に至るまでの生の称揚である」という表現に置き換えられるのであろうか。

愛妻と過ごす時間が「死」という一点に向かって収縮していく速度を高めていく中で、彼らは「生」のために食卓を共にし、そして荒木はその一瞬をカメラで切り取る。愛妻の手料理に向けられた「これを食べたい/生きたい」という荒木の欲望が、シャッターを切るという一瞬の行為を通じて、性的なメタファーをふんだんに織り込みながら一枚の写真に固定化される様子を目の当たりにし、思わずわたしは「写真嫌いの自分」を刺し殺したい衝動に駆られた。結局のところ、この猛烈な衝動をコントロール出来ず、わたしは自分を刺し殺してしまったのであろう。事実として、カメラを手に持つ事が出来るようになったのだから。

わたしは、写真を撮るという行為を、死にゆく人々の生に哀悼の意を捧げる行為として解釈し直したいのである。わたしが固定化を望む「いま」という時間は、シャッターを切った瞬間に「いま」の死骸となっていく。「いま」は決して掴む事は出来ず、淡々と「死」という一点に向かってリズムを刻んでいく。

すなわち、シャッターを切る事は、掴み得ないものを掴むというフィクションと対峙するという事だ。何に対して、どうやってシャッターを切るのか。自分自身がどんな被写体に欲望を感じるのか。こうした問いかけを自分にぶつける事で、わたしを疎外してやまないこの世界に対して、どのようにして自らの手で世界と自分との間の接続点を手繰り寄せるのかという問題と向き合っていければと思う。切断された糸は、繋ぎ直さねばならない。蜘蛛の巣を解体し、再び蜘蛛の巣そのものを編み直さねば。

いつの日か愛する人に出会えたら、わたしはきっと愛する人の寝顔をこっそりと撮るのかもしれない。愛する人がいずれ死ぬということ、また、わたしもいずれ死ぬということ、そして愛する人という存在をわたしはけっして所有し得ないという事実を目に焼きつけるために。「いま」とは、愛する人であり、この世界そのものであり、きっと永遠なのだ。写真よさようなら。

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