2022/03/19
学生時代の友人と某所で会った。取り敢えず元気そうで良かった。なぜか友人に多量飲酒癖がバレており、地味に絶望した。どうしてそんなに酒ばかり飲むのかと聞かれたので、どうしてと言われても、とにかく曖昧になりたいから飲んでいる以上の理由はないよ、と曖昧な言葉で答えた。曖昧になってモノがロクに考えられなくなる状態になる事を欲する心理が私にはよく分からないと返されたが、私にはそれもよく分からなかった。私はこの世界にシラフで対峙する事に耐え切れないから酒を飲むのであって、これ以上話をしても変に揉めそうだし、この話はもうやめようと思い、言葉の代わりに焼酎のソーダ割りを喉に流し込んだ。
この話に限った事ではなく、常々漠然と感じるのだが、年々友人と気が合わなくなっている気がする。社会に揉まれて自分を殺しまくった結果、私の方が変わってしまったのだろうか。会話をしていると、様々な意味ですれ違いを感じる。とても寂しい。学生時代の私は、現在の私を構成する一部品ではあるのかもしれないけれど、蛇が脱皮するように、いずれは私を構成する一部品ではなくなるに違いない。当然、人間関係もその時々の私に合わせて移りゆくものであろうが、いざこの厳然たる事実を肌で感じるとどうしても胸が苦しくなってしまう。結局、万物は仮初めだし、誰しも孤独だ。
夕方からは友人と別れ、二子玉川を徘徊した。街を歩くと、土地柄のせいか、自分のすぐ横を何台もの高級外車がビュンビュンと通り過ぎていった。最近、なぜか紫色のランボルギーニ(これがまた堪らなく格好良い)がたびたび私の目の前に現れるせいで、高級外車が視界に入ると変に意識してしまうクセが付いてしまったらしい。すぐ側で高級外車という所有不可能性が、回転寿司のレールに乗った寿司の如く次々と通り過ぎていく感じには、本能的にそそられるものがあった。要は所有可能な範疇のものを所有しても、究極的には満足出来ないという事なのだと思う。
園芸店で、偶然グランデ(ビカクシダの一種)の苗を見つけたので購入した。上手く成長すると、私の身長を優に超えるぐらいのサイズになる品種である。怖い。実際問題、スパーバム(スペルバム)と混同して販売されるケースが多いらしく、更に言うと胞子嚢の数を見ないとどちらの種類なのか素人には判別が付かないらしい。当分の間はどうしようもないが、品種名が判明しなくてもそこまで大きく栽培方法は異ならないと思うので、呑気に育てていきたいと思う。おわり。
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