2022/02/15

「ヴ・ナロード」という言葉が執拗に頭に浮かんできた一日だった。真の意味で「ヴ・ナロード」出来ていないと感じるからこそ、いちいち「ヴ・ナロード」が表面化するのだと思う。悪い本を読み過ぎた。

為政者は大衆のためを思った素振りを見せて行動しがちであるが、これは大衆の支持を得る事が為政者自身の政治的基盤の強化に繋がるからこそ生じる行為であると思う。中には純粋に大衆の事を思って「ヴ・ナロード」に走る者もいるのであろうが、そうした思いは、暗に大衆という存在を啓蒙すべき対象、即ち進歩的な自己たる「私」との対比の上で捉えているからこそ生じる場合もあろう。本人はごくごく真剣に「ヴ・ナロード」をやっているつもりが、実際には当のナロードを搾取しているとしたら、これ以上にタチが悪い話はないと思う。公益の増進という言葉は、一体何処を目指しているものなのだろうか。また、この言葉に惹かれる人々は、公益というものをどう考えているのだろうか。仕事をしていると、こんな事ばかりを考えてしまう。虚しい。

何も考えたくなくなり、レニ・リーフェンシュタールのドキュメンタリーを鑑賞した。私は政治の事など大して分からなかったし、当時のドイツに生きる人間であれば多少なりとも皆ナチの魅力に取り憑かれざるを得なかっただろうし、私はただ私の美意識に即して撮りたい客体のケツを追いかけただけであると主張する彼女の姿は、途方もないぐらいに天真爛漫であって、なおかつ非情だった。だが、芸術家としてのキャリアを咲かせる舞台を求める彼女の意欲が、偶然にもファシズムが渦巻く当時のドイツの時代風土と共犯関係を結んでしまったのだとしたら、彼女の数奇な運命に降り注いだ暗い影をどこまでナチへの加担として断罪すべきなのかという点にも考えさせられる部分がある。テレビ画面に映るアスリートの肉体美に惹かれざるを得ないぼくらが、彼女を堂々と批判する立場に立つ事なんてはたして出来るのだろうか。美に屈服する快楽に打ち勝てるほど、人間というものは強い存在ではないと思う。現にオリンピックという肉体美の祭典の裏で、ウクライナをめぐって大国同士が綱を引きあっている事実がその証左だと思う。美と政治は表裏一体だ。また虚しくなってきた。世界、悪い方向に進みませんように。おわり。

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