2022/02/08

コクトーの『恐るべき子供たち』を読んだ。メルヴィルが監督した映画版については、昨年渋谷のイメージ・フォーラムで先に4Kリストア版を観ていた。東京事変の「恐るべき大人達」も、ベースラインが好きでしょっちゅう聴いていた。だが、『恐るべき子供たち』の文庫版だけは中古で購入してから長らく読まずに放置していた。放置プレイはいけない。怠惰な人間たち。

以下、少し感想をしたためておく。『恐るべき子供たち』という作品は、白い雪玉で始まり、黒い毒薬の玉で終わる。玉を投げるのは、決まってダルジュロスである。ダルジュロスはこの物語の支配者、すなわち子供部屋が世俗がもたらす塵によって穢れてしまわぬように、その純粋無垢さがもたらす悲劇の一貫性を裏で操る天使なのであり、三島の『仮面の告白』で言うところの近江であり、なおかつ聖セバスチャンに類する存在なのだと思う。

ポールとエリザベートという孤児の姉弟が住む子供部屋は、社会から隔絶されたいわば二人のための完全無欠たる小宇宙なのである。ダルジュロスが白い雪玉でもってこの小宇宙のドアを激しく打擲する事により、この完全無欠性を揺るがす隙間風が部屋の中に入り込んだ結果、姉弟の歪んだ愛憎関係は悲劇に向かって速度を上げていく。そして、打擲された事によって生じた傷を瘡蓋が覆うかの如く、姉弟の小宇宙の密度は以前にも増して高まっていく。隙間風がやがて様々な社会的葛藤を巻き込みながら突風に変貌し、彼らの住む部屋を社会の中に解体し尽くそうとするのであれば、姉弟が取り得る選択はもう究極的にはこの一つしか残されていなかったに違いない。それはすなわち、子供部屋の完全無欠性を墨守するために、子供部屋の崩壊もろとも自らもこの世界から消失するという道である。この破滅への道、いや大人にならずに子供のままで死ぬという純粋無垢な夢を現実化するためには、ダルジュロスというプレイヤーの導きが必要不可欠であったように思われる。『恐るべき子供たち』という悲劇に通底する残酷さは、きっと夢というものが有する蠱惑的な微笑みから目を離そうとしてしまうぼくらの心の弱さを見透かしているのであろう。

子供部屋に籠る淀んだ空気には、夭折したラディケの静かな息遣いが溶け込んでいるような気がする。この物語は、苦しみのあまり阿片に溺れるコクトーが、大人になる事なくこの世を去った友人ラディケの思い出を胸に必死で筆を執った友愛の証しでもあるのかもしれない。やはりココ・シャネルは偉大だ。失意のコクトーを阿片中毒から助けたのは彼女である。類まれなる才能は、死のうが生きようが、きっといつも理解ある者の友愛によって救われるのだ。無能な私もどさくさ紛れに救われたい。咳をしても一人。おわり。

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