2022/5/22

男と泊まりで寝た。ここまで年下の相手と寝たのは初めてだと思う。大型犬のようで可愛かったが、寝顔が凛々しくて地味にドキドキした。年齢的に法には全く触れていないが、何となく悪い事をしている感じがして、少し興奮した。どうも神経質すぎるきらいがあるせいか、隣に他人がいるとよく眠れず、お陰様で寝不足である。ホテルから出た途端、眩しいぐらいに真っ青な空と、道を行き交う数多の家族連れと、アスファルトが発する熱気に気圧されし、ついさっきまで薄暗い部屋に籠って淫行に耽溺していた自分が急にバカらしくなり、思わず自殺したくなった。

このまま自殺しても、明日は月曜日だからどうせ仕事始まりで死にたくなるに決まっているし、日が出ている内に帰宅する背徳感に堪えられそうもなかったので、もう少しだけ暗闇に身を浸していたくなり、相手と別れた足でそのまま映画館に向かい、ニコラス・レイの『理由なき反抗』を鑑賞した。

さて、本作の感想を少しだけ書き残してみたい。ジェームス・ディーンの出演作を見るのはこれが初めてだったが、彼の姿をスクリーンで見た瞬間、何だかチェット・ベイカーに通じるような独特の雰囲気を感じた。色で表現するならば、まさしく青である。ディーンといえば、身長は少し低めだし、顔立ちにも母性本能をくすぐるあどけなさが残っており、当時のハリウッド映画界でいかにも評価されそうな男性像とは明らかにズレている。だが、その分、そのズレがシニカルな鋭さと繊細さを醸し出しており、まさしく本作の主役・ジムは、ディーンにとって打って付けの役柄であったのではないかと思う。

本作のタイトル『理由なき反抗』は、1950年代のアメリカの若者が誰しも抱えていたであろう体制や社会に対するフラストレーション、そして孤独感といった内的感情を、やり場のない怒りとしてぶつけられた大人達側の目線から捉えたものであるからこそ、こうしたタイトルになっているのではないかと思う。大人達は、自分の子供達が問題行動を起こす「理由」を理解出来ていない。ゆえに、そうした行動を「理由なき反抗」として扱い、反抗の理由を「思春期だから」という曖昧な一言で片付けてしまっている。

では、子供達を反抗に至らせる「理由」は、何であろうか。本作に登場する子供達の姿を鑑みるに、それは父性との距離感にカギがあるように思われる。本作の中心的な登場人物三人の姿を簡単に振り返ってみたい。ジムは、いつも母親の尻に敷かれている父親の姿、そして自分に正面から向き合う事から目を背けて世間体ばかりを気にする家族達に対し、あるべき家族の理想像を見出せず、日頃からフラストレーションを抱えている。次に、ジュディは、自分の事を急に年齢相応の女性扱いするようになった父親に対し、寂しさと憎しみを募らせ、不良グループと付き合うようになる。また、プレイトウは、養育費だけ支払って一向に家に寄り付こうとしない両親の代わりに家政婦と共に生活しているため、そもそも家族生活自体が根っから破綻し切っているせいなのか、ジムに対して自らの父親としての理想像を重ね合わせるようになる。

畢竟するに、三人ともまさしく自我の確立に際して激しく心が揺れ動く思春期という時期において、自分の側にいる/いない父親の立ち位置をめぐる内的葛藤を抱いていることが分かるであろう。彼ら子供達の葛藤は、アイデンティティをめぐる微細な問いかけに直結しているがゆえに、大人達はその葛藤を共有できず、結果的に双方がお互いを理解する事が構造的に不可能であるがゆえに、この物語は必然的に悲劇を迎える形にならざるを得ないのであろう。

さて、これは余談だが、私の大好きな映画、ウィリアム・フリードキンの『エクソシスト』には、キンダーマン警部がダミアン神父に向かって「あなた、サル・ミネオに似てますね」という趣旨のセリフを言うシーンがある。本作にて悲劇的な死を迎えるプレイトウ役を演じた俳優が、まさしくあのサル・ミネオらしい。プレイトウという名前は哲学者プラトンに由来している上に(※)、サル・ミネオ本人も暴漢に刺殺される運命を辿ったのであるが、そう考えると、あのキンダーマン警部のセリフは中々意味深なものだったのかもしれない。

※あのプレイトウの死は、自らに欠落している何らかの「父性」を補充することで、天上世界を再生しようとする試みが失敗した隠喩なのかもしれない。もっと言えば、実のところプレイトウはジム(という「父性」)に性愛感情を抱いていたのではないかとも思う。そういえば、プラトンも同性愛者だった。

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