高校"文学国語"の選択制ー文学離れの何が問題なのかー

https://www.google.co.jp/amp/s/valed.press/_amp/_ct/17332736
 高校"現代文"が論理国語と文学国語に分かれる。しかも選択制。"文学離れ"への危機感が高まっているけど、実際に文学離れが起こることでどの様な問題が生じているのかについては言及されない。この記事もそう。"文学離れ"はいまに始まった問題ではない。文学国語の選択化もその批判の根拠の貧さもけっきょくその顕れでしかない。あとは全てこちらの村上春樹さんのスピーチに全て示されているのでお読みくださいhttps://www.google.co.jp/amp/s/www.sankei.com/life/amp/210401/lif2104010045-a.html‬
‪と言いたいところだけど続きます。
 ーものすごくざっくりとした言い方だけど、文学が"集団と個人"の狭間で揺れる自己の人格形成に、いわば集団とは相容れない自己を内包した自己を照らし出す客体として働いてきたことは、本を愛する多くの人に通じる感覚のはずだ。つまり"文化伝達"という重要な役割を担う学校が、これを選択制として軽視する。ー集団は「普通はこうだから、やはりあなたもそうすべきだ」といった大衆性によってその結びつきを強固にする。そこでは集団に相容れない人格や「普通はこうだとされているけど、でも本当のところはどうか」といった懐疑は煙たがれる。文学はそのような集団に一石を投じる役割を暗に果たしてきた。

 文学国語の選択制はつまるところ、「そんな社会に役立たない学問は置いておいて、社会貢献に直結し得る論理的な国語力を養いなさい。集団と相容れない?そんなものとっとと同化させて、社会の役に立つことを考えなさい」と、文学がけっして表立つことなく脈々と果たしてきた文化的業績と、文学を必要としてきた人びとを軽視することだ。"文学離れ"は多様な人格を持つ自他への理解や集団へ懐疑の目を向ける能力の低下をもたらす。
 多様な人格を持つ自他を理解したり、集団へ懐疑の目を向ける力は論理国語では養われないのか?と疑問を抱く人もいるだろう。たしかに。しかし、"およそ日常的な言語では到底表しきれない"ことを内に持つわれわれ人間が、だから物語や詩のかたちを借りて表現してきた、あるいはそれを読むことで自身の糧としてきた経験は論理では得られない。言語によって解答を得ることを前提とした論理は、"そもそも人間には言葉にできない物事がある"ことを前提に成り立つ文学に代わることはできない。文学国語と論理国語に分けるなら、どちらも必修にすべきだ。
 
 多感な時期を送る高校生が、実務的な能力を養うために論理国語を選択するだけでなく、"ちょっと言葉では表せない自他のこころ"や、その集まりとしての集団を理解する目を養うために(それは自分と他者を受容れ、理解するために必要なことのはずです)文学に触れることを願っています。

 "文学離れ"は今に始まった問題ではなく、"集団への同化"や大衆迎合、正当性を欠いた前例踏襲、権力者への忖度や追従など文学が警笛を鳴らしてきた物事が当たり前のように見過ごされている世の中ですが、今日の"文学離れへの危機感"を機に、文学の意味が見直されることを期待しています。


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