仕事について思うこと

 ぼくはあまり"仕事"というものに期待していない。なんでかって、ーーそれを説明するのはとても難しい。だからぼくの自論に焦点を絞って書くことにする。
 対価とは自身の自由を売ることで得られる。それがおそらく"働く"ということだ。その絶対的な要素として挙げられるのが"時間"であり、私たちは、自身の自由な時間を仕事に分け与えることの対価として給料を得ている。
 これは間違いのないことだ。

 しかし、この時間の売り方は人によってちがうし、その内容によって、その人の仕事における動機は全く変わってくる。

 たとえば、便宜的に細かい条件を無視して考えるならば、料理が好きな人にとっては、自分の時間を料理に割くことには大きな損失を感じないだろうし、(もちろんそれは「料理が好きじゃない人」と比較した場合のはなしだが)ようは料理が好きだから、自分の時間をその料理に割くことは料理が別に好きじゃない人に比べて不自由ではない。
 言い換えれば、対価を度外視した場合に選択される行為が、仕事の内に含まれているのならば、その分は時間を自由に過ごすものとして、同時に対価が得られるというわけだ。しかしもちろん、現実は料理が好きで飲食店に就いたからといって、全て自由の内に勤められるわけでは決してない。やりたくもない単調な作業を延々としなければならないし、当たり前だけど、手を休めたい時に自由に休めるわけではない。

 問題はその兼ね合いだ。好きでもないことに週5日以上の自由な時間を分け与えるのか、自分の趣向にある程度リンクしたものに分け与えるのか、言い換えればその仕事の内容に自我理想的なものが含まれているのか。さらに、そういった内面的な兼ね合いに限らない、給料や待遇の良し悪しも当然だけど含まれる。時間を売ることで得られる金銭的な自由は、自身の感じる不自由度と釣り合いの取れたものだろうか。一般論に立ち返るようだけど、つまり自身の趣向や能力を含めた適不適、給料、待遇といったもののバランスが自分にとって頷けるものであるのかどうか。ーーしかし、そのように(ただ自分にとって)バランスを備えた職業を見つけられるかどうか、また見つけたとしても就けるかどうかは、またもっと複雑で、現実的で、難しい問題だ。それについてはぼくには何とも言えない。だからここでは、仕事についての根本的な考え方について述べるに留める。

 ところで「"仕事"というものにあまり期待していない」と言った。自我理想が満足にリンクするような仕事に就けるのは、一握りの人間でしかない。殆んどすべての人は何かしらの不満をのみこみながら働いている。しかしそれが初めに述べた感想の理由ではないと思う。たとえば仕事の内容には文句の付けようがない。しかし(もしこのような括り方が許されるなら)その職種に集まる人間の傾向が、ーーつまりその職場における雰囲気とか(いわば大衆的な)観念といったものが、自身の人格の延長線上にある像と相容れないものであった場合、その人はその職場環境の中では常に少数派の意見を持つものである。ーそれは認められないことを意味する、承認されづらいこと。自分の意見や行動がなにか異なるものとして理解されないこと。ときに非難されること。ー周りが共有していることと、自分が考えることに差があるとき、その人は時として厄介な立場に置かれる。時に同化を迫られ、時に(自身の同一性を保つために)取り合わないことに努める必要があり、またうまく付き合っていく工夫をしなければならない。

 これは悲観的だろうか。ーーしかし現に、私たちは多かれ少なかれ、こういったものをのみ込んで生活していると思う。そして、それが普通なものとして受け入れていく、あるいは慣れていく。
 しかしそれは正しいことなのだろうか? とくにその雰囲気なり観念なりがある意味で、私たちをどこか悪い方向へと進めていることが分かっているような場合。

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