見出し画像

海辺のカフカ

 10年ぶりに、村上春樹の「海辺のカフカ」を読んだ。「ああ、この話には、こういう意味があったんだ」と改めて気づかせてくれる小説って、なかなか無い。

 たとえばオイディプスの挿話。以下、わたしの記憶に拠りますが、
 ーーかつて、人間は男男、男女、女女として幸せに暮らしていた。しかしある日、神が彼らを半分にすっぱりと切ってしまって、彼らは自身のかたわれを探してさまようことになった。

 これまでは「自分にぴったりのひとを探すこと」というイメージでしか捉えていなかった。しかしあらためて読んでみると、この挿話が意味するのはむしろ自身の同一性の問題なのではないかと気が付く。
 多くのひとは生まれてから思春期(ルソーはこれを"第二の誕生"と呼んだ。そしてルソーはこの第二の誕生をうまく遂げられなかった人である、)までの長い時間を、自身の主観性と客観性とが一つになった、ある意味で完結した意識の内で過ごす。楽しいときは楽しいし、悲しいときは悲しい。ーーそれが"第二の誕生"に差しかかったところで、これまで一つの意識として働いていた主観と客観とが二分にされる。つまり自分自身を客観的に見る目がそなわるわけだ。そして、いわゆる同一性の獲得とかアイデンティティの確立とか言うように、一旦離れ離れになった主客がふたたび調和されていく過程が、この話における"さまようこと"である。

 ーーそのように考えると、村上春樹の小説はその多くが、もちろん海辺のカフカも含めて、この"同一性の問題"から眺めることができる。

 同一性には自身の社会的な立場やふるまい方が含まれている。アイデンティティとはただ自身の内で完結するものではなく、自身の内側と社会的な自己としての外側の両面によって成り立っている。だから自身の主観とそれを意味づける客観性、その上での内的な性質が社会にちゃんと結びついている場合には、多くの人は充実した生活を送ることができる。厄介なのは、自身の感情と意識の折り合いがつかないとか、内面的なものが外側に結びつかない場合だ。たとえば自我が本来的に理想とする像と、自分で理想だと思い込み、誤って創り出した像とが逆のことを言っているような場合。たとえば内的な秩序が社会の創り出したイメージにかき乱されるような場合、その人は誤ったかたわれを身に付けた男であり、女であり、だから自分に合う考え方なり社会を探してさまようことになる。

 村上春樹の小説はジョージ・オーウェルに影響を受けている。(登場人物とか挿話を追っていると色々と気付くことがあって面白い。たとえば"象を撃つ"とか)
 オーウェルの"ディストピア"を村上春樹が何かしらの形で受け取っているなら、それはこの"彷徨う内部"だと言える。主客が二分されたとき、たとえ内的な秩序を保ったとしても、この世界に結びつくような余地はほとんど無いかのように思われる。それは個人の問題であり、同時に世界の問題である。ーーそれはなぜか。また、そのような状況に置かれたときにわたし達は何をすることができるのか。あるいは何をすべきなのか。

 村上春樹(オーウェルもそうなんじゃないか、おそらく)は第二の誕生をルソーとおなじく保留した人である、とわたしは思っている。第二の誕生をすんなりと通り過ぎた人が、思春期を生きる少年の内部をこのような形で具体的に記述することはできないと思うからだ。それが妥当な解釈ではないか。

 そしておそらく、村上春樹はかれ自身のかたわれを探し彷徨うことになったとき、自身の内面と、決して変えることのできない自分を取り巻く世界の間に容易には解決できない問題が横たわっていることを認識したはずだ。そして、いわば内省的に、この「海辺のカフカ」を書いた。おそらく、そこには日常的な言語では表せない心象が暗示されている。たとえばオイディプスの挿話。たとえば佐伯さんやナカタさんの含んだメタファー。ーーそれらが一つの作品として現されたとき、わたしたちは自我の離れ離れになったかたわれを探し求めることの意味について考えることができる。海辺のカフカは、そういった現実を生きる人々に手を差しのべている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?