ノマドサバルタン

興味深いハンドル名に出会った

ノマドは「遊牧民」、サバルタンは「従属民」

ただ前者はドゥールズとガタリが流行させ、後者はスピヴァクが独自の意味を込めた

ノマドは単に遊牧民を指すばかりか、遊動そのものも意味し、定住の反意語。歴史なるものは概ね定住し国家を築いた人たちの言動を語るが、国家という権力構造を拒否し、故に立派な建造物など造らなかったために歴史から疎外された人たちがいる。クラストル『国家に抗する社会』参照。

さらにドゥールズたちはノマドを流動の意にまで拡大し世界の「固定化」に抵抗する。カントではないが言語の基本にカテゴリー化があり、それこそが思考をミスリードするだろう。世界は流動しているのではないか。木村敏はそれを「もの」と「こと」と言い表した。

世界は絶えず変化しているのに、人はその変化に耐えきれず固定化しようとする。血は流れ細胞は時事刻々変化しているのに「人間」という名詞は変化しない「もの」として捉える。目の前の石ころも時の流れの中で変化しているだろう、それは人間の肉眼では見えないかも知れないけれど、1万年とかの視野で見るならまた異なった様相を呈するだろう。雨だれ石をも穿つって?

ノマドという一語に託されたのはカテゴライズしなければならない思考の罠に陥らないこと、思考が言葉によるものである限り世界の「もの」化は避け難いのだ。罠に陥らずに流れるように思考すること、思考を流れにすること、流れが思考となること。

スピヴァクのサバルタンは声なき民のこと、歴史において声の届けられなかった人たち、歴史の忘却の穴に埋もれてしまって、無かったことにされた出来事や人々。

スピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』と問うたけど、サバルタンが定義上、語ることの出来ない人たちなら、語ることはできないと言う他ないがゆえに、のちにはサバルタンは聞くことが出来るかと、スピヴァクは問うようになる。

そうなのだ、サバルタンが語ること出来ないのなら、むしろ現代の私たちがその語られなかった声をいかに聞くかという風に問題は再編される。歴史は語られなかった出来事や人々の嘆きに満ちているのに、語られなかったが故になかったことにして、語られた出来事だけを歴史として来たのだ。その責めは私たちにあるのかも知れない。

慰安婦は語り出された稀有の事例だ。それさえも抹殺しようとする人たちに現代人は抵抗しなければならない。南京の大虐殺の陰には語られないさまざまな小虐殺が多々あったろう、あったはずだ。歴史はそのような嘆きに満ちており、私たちはその声を、耳を澄まし全力で聞かなければならないのではないだろうか?