フーコーのテクノロジー

 アドルノとホルクハイマー『啓蒙の弁証法』は、内なる自然の抑圧と、暴力的な画一化概念化による思考の抑圧とがナチスにつながったと論じ、ギリシャ文化にその萌芽を見てホメロスの『オデッセイア』を例に挙げる。ドイツ系の思考がその淵源をギリシャに求めがちなのには民俗学的発想が影響を及ぼしているかも知れない。ラテンの伝統を持たないゲルマン文化はより遠いところに自己の伝統を位置づけたいという欲求を醸成したのだろうか。折口が中国四千年より遠い「常世」を妄想したように。

 フーコーが『性の歴史』の第3巻に至って、それまでの予告とはまったく異なる方向に向かい、ギリシャ文化の「自己のテクノロジー」についての考究を始めたのは、ラテン文化の行き着く果てとしての「人間」、ことに個としての「私」、「近代的自我」なるものへの違和感ないし批判だったと考えたい。彼はギリシャ人の「自己のテクノロジー」がラテン文化の育んだ「自己」に至る道(ナチスへの道でもあるだろう)とは大いに差異化されたそれ、ことに〈性〉と身体にまつわる「自己」の「テクノロジー」の異様なまでの差異を見てとったからなのではないだろうか。ここにはギリシャからラテンへの文化継承に一本道ではなく、両者の間に深いクサビを打ち込む姿勢がある。

 ギリシャ神話の研究者ケレーニーは、ギリシャの多神教がラテンのキリスト教の一神教への転換へと転換されたことで、その豊穣さの喪失と見て批判的なのかも知れないけれども、両文化の断絶は感じていたようである点では、フーコーと相通じるものがあるだろう。ケレーニーによれば、ギリシャの神々と特性はキリスト教のそれに比して何よりも性の多様性豊穣さと言ってよく、ゼウスの交わった異性は十指で数えられるどころではない。ケレーニーの『ギリシャの神話』には、ゼウスの交わった女性・女神が何十人と挙げられている。

 もっとも『好色一代男』の世之介、交わった女性3,742人、男性725人には及ばないけれども。フーコーが世之介を知ったら〈江戸のテクノロジー〉をかいたかも。衆道というよう同性愛の公認(?)されていたのが江戸社会であったのだから。

 ギリシャ文化の豊穣性の対するラテン人たちの劣等感が敢えて差異化を図るために、多神教に対する一神教を持ち出し、性の多様性に対し禁欲性を称揚する立場を構築するようになったのだとケレーニーは主張していた(と思う、何十年も前に読んだきりなのでうろ覚え)。何しろキリスト教ほど禁欲的な宗教もなく、十戒には淫らな心を持って異性を見るものは既に姦淫したことになると。見るくらいは許してよ、と言いたくなる。しかも処女マリアが懐胎と。徹底したとでもいうべき〈性〉嫌悪ではないか。

 このようなラテンローマの宗教世界と異なるのがギリシャのそれ。〈性〉とそれにまつわる身体のあり方、さらには生き方までも異なるのがギリシャとローマの文化の相違。そしてラテンローマ文化の育んだのが、一神教、処女崇拝、一夫一婦制、家父長制、同性愛禁忌など、ろくでもないものばかりなのを理解するなら、近代世界に広がったラテンローマ文化は根底から吟味し直したくなる。アラブ世界には少なくとも一神教と家父長制以外はないようだ。

 フーコーがギリシャ文化に見出した、或いは創りだそうとした人間は、ヘーゲル流のビルドゥングス・ロマンばりの「個人」でもなく、騎士物語から近代の恋愛小説に至る自己でも、またルソーの誰とも異なる私(『告白』)や思春期の第二の自我(『エミール』)とも異なる独特の人間像なのではなかったか、と思われてならない。西洋近代の神話たる「近代的個人」とかけ離れた、〈別の仕方〉での生存を可能にする新しい人間像ではなかっただろうか。成功したか失敗したかはともかくとして。


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