【サロンコラム】比較優劣VS自己肯定感~そろそろ肩の荷を下ろしませんか?~
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親が「過度な干渉」「過度な注意」「過度な期待」をするタイプだった人の自己肯定感はとても低くなります。
親からの過剰な期待を背負った人は緊張とプレッシャーに押しつぶされる日々を過ごすことになる。
助けを求める場もない。親離れした後に「頑張りすぎなくてもいいんだ」と悟れると楽になります。
【ここまで】
ーー親が「過度な干渉」「過度な注意」「過度な期待」をするタイプだった人の自己肯定感はとても低くなります。ーー
自己肯定感が低い人の大きな特徴は「ありのままの自分を許せないこと」「自分を否定しがちなこと」「人との競争などでしか自己価値を認識できないこと」などだと言われています。
一般的に自己肯定感と混同されがちな言葉に「自信」がありますが、「自信があるからと言って自己肯定感が高いとは限らない」というのが私の解釈です。
どういうことかと言いますと、自信は「他者との比較」「競争」「優劣」「勝敗」「マウント」などを通して獲得されていくものです。
例えば、「中高ずっと学業が優秀で自信がついた」とか「周りと比べて運動神経が良かったから運動には自信がある」とか「30代の平均年収より稼ぎが良いから自信がついた」とか「比較的容姿に恵まれているから自信がある」とかそういうことですね。
重要なことなので強調しておきますが、自信ってあくまで「他者比較」「比較優劣」を通して獲得されるものなんです。
一方で自己肯定感は「ありのままの自分を認められているか、許せているか」という概念になります。
つまり先ほどの例えを再利用すれば「学業優秀じゃない自分も許せているし、運動神経が悪いからって自分の価値が低いわけじゃないし、年収がイマイチだからって卑屈にならないし、容姿が優れていなくても自分のことを愛せてる」ということなんですね。
これが専門的な意味での「自己肯定感」の考え方になります。
「勉強ができない自分のことなんて愛せるわけないじゃないか」
「運動ができない自分のことなんて愛せるわけないじゃないか」
「年収が低い自分のことなんて愛せるわけないじゃないか」
「ブサイクな自分のことなんて愛せるわけないじゃないか」
そんなお声をいただきそうですし、実際Xやnoteで自己肯定感の発信をしていると、「自己肯定感なんて綺麗ごとだ」「人より優れているからこそ愛されるんだ」「あなたは何も分かってない」という意見や、時には厳しい反論を頂戴することも多いです。
もちろん気持ちは分かります。
なんといっても、こんな発信をしているこの私自身が、かつては競争や比較優劣でしか自分の価値を見出せない人間でしたし、「人より能力が低い自分には価値がない」「人より収入が低い自分には価値がない」「人よりモテない自分には価値がない」…というように、評価軸を「他人」に求め(他人軸と言います)、いつも自分を追い詰めていました。
実際、そのような比較優劣的な競争を戦い抜くことで、自分のスキルや能力が上がっていった一面もありますし、恋愛ということで言えば「モテ」に向けた努力をしたおかげで一定の「モテ」を手に入れることができた側面もあったかもしれません。(いや、別にそこまでモテてはないか)
ですがこの「比較優劣を通して自信を手に入れる」という生き方を、我がRK流ではなぜ推奨していないのかと言えば、その生き方がとても生きにくいからということに他なりません。
例えば最近はお隣の韓国の影響もあってか、日本の若い世代ではルッキズムの激しい波が到来していると言われています。
女子はもちろん、男子も若い世代では尋常じゃないくらい美容に力を入れていますし、インフルエンサーは多くの人が美容整形に手をだしています。
メディアやSNSの煽りを受けて、中学生や高校生でも激しい容姿コンプレックスを抱える子が多く、親に整形費用を要求したり、あるいはその費用を稼ぐために中高生にとっては違法なナイトワーク求人を探したりもするようです。
ここで私は、「容姿を磨くこと」について批判的に書いているわけではありません。
むしろ容姿を磨くことは自分磨きの一環ですし、それが自分らしさや前向きさな自信に繋がっていくことは多いでしょう。「私は容姿を磨きたい!」という自分軸で容姿を磨くのは、素晴らしいライフワーク的な発想だと思います。
ですが、「周囲のあの子があんなに可愛いから私も二重整形しなきゃ」とか、「SNSのあの子がやってるから私も脂肪吸引しなきゃ」とか、「このままではあの子よりブサイクになってしまうから可愛くならなきゃ」という、比較優劣をもとにした自己脅迫めいた発想が蔓延している風潮については、
「こりゃ、、、すごく生きにくい人が多くなってそうだよな」ということでこうして記事を書いて何か気づきを得られる人がひとりでも増えればいいなと思っています。
比較優劣から自己肯定を得ることは決してできません。
例えば、ある比較優劣において誰かに勝ったり、誰かより勝ったとしても、また別の「嫉妬の対象」があらわれるものです。比較優劣と他人軸の波に飲まれた瞬間に、終わらない戦争に足を踏み入れるようなものです。
結果として、どんなに優劣勝負やSNSマウントで勝利をあげたところで、毎日なんかモヤモヤする、毎日息苦しい、自分じゃない誰かの人生を生きてるような気がする、「私って、これで幸せなんだっけ?」と感じてしまうということなんですね。
そして、
誰かと比べていつも「こうしなきゃ」と焦る。
ありのままの自分を愛せない。
そんな発想の根源を探ってみると、そこには親子関係があったりするものです。
ーー親からの過剰な期待を背負った人は緊張とプレッシャーに押しつぶされる日々を過ごすことになる。ーー
家庭環境と自己肯定感は非常に密接に関わりあっています。
人の潜在意識は8歳頃までに両親との関わりあいや兄弟とのコミュニケーションを経て「観念」の基礎を形成していきます。
「観念」というのはムズイ表現っぽい感じがしますが、要は「思い込み」とか「無意識の思考パターン」とか「マイルール」とかそういうものです。極端に突き詰めてキツイ表現をするなら「洗脳」みたいに言ってもいいかもしれません。
人の日常の行動や言葉の選択、人との接し方、仕事のやり方は全てこの「観念」がベースになってると言っても過言ではありません。
観念は人の行動を形作る非常に重要なもので、それの大枠は幼少期に形成されると言われます。
それで、幼少期から親が厳しくツイートのように「過剰な期待」「過剰な干渉」を受けて育つとそれに応じた観念が形成されます。
すなわち、素の自分を認められない、周りの子より優秀でなければならない、親に評価されなければならない、頑張らなければならない、、、こんな「思考パターン」が作られていくんですね。
その「思考パターン」は先ほど述べた「自己肯定感の低さ」に直結してくるわけです。
「自己肯定感の低さ」とは「ありのままの自分を認められない」「周囲に評価される自分にならなければいけない、、、そうならなければ自分には価値がない!」そんな考え方のことでした。
ーー助けを求める場もない。親離れした後に「頑張りすぎなくてもいいんだ」と悟れると楽になります。ーー
「期待に答えなきゃいけない」「がんばらなきゃいけない」「優秀でなければいけない」「評価されなければいけない」という「観念」とともに成長した人は、比較優劣の世界では実績を残しやすいですし、実際に優秀であるケースが多いし、「自信」もあることが多いです。
つまり、「頑張らなきゃいけない」という考え方とともに育った人は実際に頑張るし、その頑張りに応じて実績や評価も手に入れていきます。
しかしながら、その「自信」の仮面を一皮剥いでみると、、、、ボロボロになった自己肯定感が現れてくることが往々にしてあります。
「頑張らなきゃいけない」という観念は「頑張れない自分」「無理をしたくない自分」を思いっきり抑圧しますから、そういった本来的な部分の自分はとても苦しんでいて「もう頑張るのなんてやめたい」「しんどい」と感じていることが多いんですね。
社会的にかなり評価されてる人やバリバリ働いている人が大病を患ったり、精神的に病んでしまうことがあるのは「本来的な頑張りたくない自分」を強く抑圧し続けた、重いストレスの影響であることが非常に多いです。
これ、いつも言ってる「依存心を抑圧し続けてる自立系女子の話」と同じこと言ってますから、自立系女子各位も自分ごととして聞いてくださいね!笑
ですから、走り続けてきた人、頑張り続けてきた人、親の期待に応え続けてきた人、優秀であり続けてきた人、自立系女子、、、、
そんな人へは、「そろそろその重すぎる鎧を脱いで楽になりませんか?」という提案をしたいのです。
その一環としては、やっぱり自分と向き合うのが一番ですし、自分の過去を棚卸ししていくのが良いと思います。
具体的なワークとしては次のようなプロセスを踏んでいきます。
ぜひやってみてください。
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