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カメラの切り替え、「そこに意志はあるのか?」という自問

これは誰かの批判ではなく自分への自問なのですが、「カメラを切り替える意味」を考えるようになりました。

唐突に書き始めてしまいましたが、これは「マルチカメラスイッチング」と言って、複数のカメラを同時に使って映像の撮影をして、カメラを切り替えながら映像を作っていく手法の話です。

普段私たちはテレビ番組などで、ごくごく普通にマルチカメラスイッチングされた映像を見ていますが、実際にそれを自分で撮影してみようと思うとかなり大変です。

私は数年前、ライブ配信の現場をやりはじめて、複数のカメラと映像スイッチャーを用いた撮影をすることになったのですが、最初はカメラが切り替わるだけでかっこいいしそれっぽいし、なんだかプロに近づいたような気がして興奮したものですが、次第にその奥深さに気づいていくことになります。

プロが撮影した映像には感じないのですが、同じアマチュアフィールドでやっている人たちのマルチカメラスイッチング映像を見たときに、没頭させてくれる映像と、スイッチングの無駄が気になってどうも入り込めない映像と、どちらもあることに気づきました。

私は、何人かの出演者のいるトーク番組の現場が多かったのですが、現在はひとりのピアノ演奏者を複数台のカメラで囲み、アングル違いのカメラを切り替えながら映像を作ることに挑戦しています。

トーク番組であれば、喋っている人をカメラで抜くとか、手に持ったものを写したい場合はそこにカメラを向けるとか、みんなで笑っているときには全員を写すとか、何かしら意図をもってカメラを切り替えるのですが、たったひとりの演奏者に対して複数のカメラを立てている場合、なんとなく惰性でカメラを切り替えただけでは、とてもつまらない絵になってしまう気がして、いたく落ち込みました。

カメラを2台、3台、4台と増やしていくと、たしかにカメラが切り替わったということの変化をもたらすことはできるのですが、その一方で、「その切替えに意味はあるのか?」「そのカメラは必要なのか?」「お前はそのカメラを活かせているのか」と、映像の神様、もしくは自分自身からの問に自分自身がさらされる禅問答が始まり、自分が試されているような気持ちにどんどんなりました。

この問にまだ明確な答えはなく、まだまだ修行の身なのですが、やはり自分にプランがなく「なんとなく」切り替えちゃったときには映像もつまらなくなって、一方「こうしたい」「こう見せたい」という意思を持って切り替えたときの方が、映像に張りが出る気はしています。

ここまで書いておいてお恥ずかしいのですが、一番最近撮った映像を貼っておきます。これはカメラ2台を切り替えた映像で、徐々に映像をクロスさせる手法は用いずに、スパンッと映像を切り替える「カット」だけで処理しています。

リアルタイムにスイッチを切った撮りっぱなしの映像ではありますが、演奏者に呼吸を合わせるような気持ちで、自分なりのプランを持ってスイッチャーを操作しています。

まだまだ修行の身ですが。

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