なぜかバレンタインに記録的な大雪に見舞われ、山里で帰宅難民になった時の話
川手@RKawtrです。
実は生涯で1度だけ、帰宅難民になったことがあります。
雪がしんしんと降り積もる、自宅まで約50kmという山道の道中、山梨と静岡を往復する身延線に乗車中、電車が積雪の影響で急遽運休となり、物理的に帰宅できなくなりました。
この話は今までにも飲み会で、いわば「ネタ」として語ったことが多々ありますが、自分としても一度しっかりとアーカイブ化し書き留めておければと思い至り、この度noteにまとめた次第です。
先に結論を話しておくと、山梨で帰宅難民になっただけに、
ヤマなし!オチなしです!
....ああ、すいません、直帰しないでください...つまらないダジャレはここだけなんです!本当です!
難民化編
当時大学2年生(20歳)だった私は、編入学試験を経て東京の別大学に移る予定で準備を進めており、短期間で山梨県と静岡県を往復する生活を送っていましたが、あれは最後に往復した日のこと。2014年2月14日。そう、バレンタイン当日。
実はその数日前、僕の住んでいた山梨では記録的な大雪が記録されました。ちなみにその時の実際の写真がこちら。
これだけ雪が降ってしまうと、特に普段は雪が降らない山梨の平野部は機能しなくなります。
そしてなんと、この雪が降る2日前に引っ越しを行なっており、一時的に山梨の実家に荷物を運ぶなどしていたため、「あと数日遅ければ引っ越しも危うかったね」と家族間でその日の前日に小話をしたりしていたのを、今でも覚えています。
ちなみにその時点で、その数日後にそれをはるかに超える観測史上最大の大雪が降り、自分が帰宅難民になるとは、全く予想だにしていませんでした。
2月14日に山梨から、大学のある静岡にわざわざ向かった理由は大きく分けて3つあります。
1.学校に成績証明書をとりに行く(郵送も可能だが、それでは編入先の大学の提出期日に間に合わない)
2.バイト先(飲食店)に手渡しで給料をもらう
3.当時仲が良かった悪友たちと、ランチ焼肉を一緒に食べる
山梨から静岡(伊豆方面)に抜けるには、電車で行く場合は身延線を使うのが一般的です。南甲府駅から富士駅に向かい、富士駅から伊豆方面に東海道線で向かいます。当時の私は貧乏学生だったので、片道3時間近くかけて静岡に向かうことになります。
南甲府までは距離があるため、仕事場に向かう父に送ってもらうことにしました。しかし...なんということでしょう。吹雪いているのです。数日前の豪雪が記憶に新しい自分は父に、「これ積もるかなぁ」と尋ねたところ、父は「大丈夫だろ!」と結露をタオルでゴシゴシと拭きながら、雪道をノンストップで疾走。なんと頼もしいことでしょう。この時点で正直な話、嫌な予感はしたのですが、電車に乗り、静岡方面に向かうにつれ雪も減り最終的には天気も良化したため、「心配しすぎたかな...」と朝の雪模様のことはすっかりと忘れてしまいました。
ここで本来気づいておくべきだったのですが、静岡は温暖な気候の地域のため、雪が降りません。つまり山梨は雪が降り続けていたのですが...そんなことはつゆ知らず、「天気良くなってきたな」と能天気なことを考え、予定通り成績表を受け取り、バイト代を手渡しで受け取り、悪友と焼肉を食べ、お腹いっぱいの状態で沼津から富士市に東海道線で向かいました。
ここで2つ、想定外だったことがあります。
1つ目はバイト先でのお給料を手渡しでいただいた際のこと、「今日はバレンタインだから」とチョコを頂いたのです。
もう1つは、焼肉が思いのほか長引いてしまったのです。つい食べ過ぎてしまい大幅に時間オーバーしてしまいました。そのため、富士駅に焼肉のせいで遅延が生じた私は、1本の電車を逃してしまいます。地方では一本を逃すことで大幅な遅刻になりかねません。もちろん山梨に18年、静岡で2年生活した自分は嫌というほど心得ています。
しかし、まさか命取りになるとまでは考えていません。
「まあ別に急いでないしいいか」と呑気にジュースを買って本を読みながらiPhoneを使って時間を潰し始めました。もちろんその時点で、のちにそのiPhoneのバッテリーが貴重な生命線になるとも考えず浪費していました。
電車に乗ったのはそれから30,40分ほどのことでしょうか。1日中静岡を駆け巡り、連日の往復作業で体も疲弊していたのだと思います。電車に乗るとつい、うとうとと居眠りをしてしまいました。
どのぐらい寝たのでしょうか。
富士駅を出たのは16:00ぐらいではなかったかと記憶しています。「あ、降り遅れた?」と慌てて思い立ち上がります。
しかし電車はまだ山の中、ほっと一安心するのも束の間...何かがおかしい。
おかしな点は、2つあります。
1.車窓から見える風景が白く見慣れない
2.駅ではないのに停車してる
風景がすっかり雪化粧しており、風景から今どこに自分がいるのかがわからないのです。
「今どの辺りだろう」
「結構雪降っちゃったな...大丈夫かな」
などといった考えが脳裏で交差します。それからしばらくすると、「電車が動きます」とのアナウンスとともに電車が動き始めます。形式的な謝罪も繰り返され、「良かった良かった。なんだよ、人騒がせな」と思いつつ、雪が降り積もる前に帰りたいなと、少し苛立ちます。
しばらくすると、また電車が止まります。雪は止みません。
私は父に電話をし、「電車が大幅に遅れているから、もしかすると帰宅が大幅に遅れるかもしれない」と告げます。すると父は、「じゃあ先にライブ行って、帰りに駅に向かいに行くわ!」と言います。(当日は父は夜ライブ鑑賞の予定が入っていました)「わかった!」と私も電話をきり、また電車の中で時間を過ごし始めます。
それからしばらくしてまた動きます、また止まります。4度、5度ほど繰り返した頃合いでしょうか。もう本来であれば既に地元駅に着いているはずの時間ですが、一向に駅は見えてきません。すでに21時を上回っていました。本来19時すぎには南甲府駅に着いているはずです。
山の中を電車が通ります。誰かが不穏なことを喋り始めます。
「後続車両が全部、身延駅でせき止められてるみたいだぞ」
一体どういうことなのでしょうか。僕はいまいち状況をよくわかっていません。身延駅は富士駅寄りにあり、私は反対の甲府方面に向かっています。身延駅は身延線の中ではそこそこに大きな駅で、周りにも家屋があり、駅前にもホテルなどが存在します。いざ電車が運休になっても、緊急時は宿泊が可能です。(たしかJRの宿舎もあるため)ところが、身延線の各駅は無人駅が多く、集落も周りには存在しません。つまり...
これ以上進むと、動けなくなる可能性がある
という判断がなされた場合、身延線の場合は身延駅で停車しないと車内に乗客が閉じ込められてしまうリスクがあるのです。しかし、当時の自分はそんなことを知りません。
「ラッキー!自分は帰れるぞ!」
などと考えていました。我ながら、なんと浅はかなことなのでしょう。電車がまた、長時間止まります。
しかし今回の停車は訳が違います。アナウンスが流れます。
「現在大雪のため運行が困難な状況が続いております」
「しばらく様子をみて、運行再開を判断いたします」
....はい!?
な...何をバカな。そんなことをしたら大変です。電車は単線、ほかに乗り換え可能な電車は存在しません。様子を見ていて、帰れなくなってしまっては一大事です。僕は憤りを隠せませんでした。
「まじか...」と。しかし、いえ...むしろもうこの時点では憤るべきではなかったのでしょう。
もうお前はだいぶ大変な状態にあるぞと、
お前既に手遅れな状態になっているのだぞと、
しっかりと自覚すべきだったのかもしれません。
電車の中は、どのような状況になっていたのでしょうか。まず幸いなことに、自分自身便意はなかったため、そして幸い駅にも停車していたため、衛生環境の観点からは救われました。何も問題ありません。
次に、電車はワンマン式電車だったため、各自自身でドアの開け閉めが可能な車両だったため、本格的に閉じ込められた訳ではなく、その点も救われました。
次に、車内の雰囲気はどうだったでしょうか。不安に打ちのめされ、全員サイコハザード、混乱、緊張状態でしょうか。...いいえ、そうではありません。
なぜか、宴会が始まっていました。
私は当時お酒をあまり飲まなかったため遠目で見ていましたが、「今日はもう帰れねーな!」と飲食を始める方も多々。「まだビールありますか?」と合流し始める人もいる一方、「ありますよ!」と手渡す人までで始める始末。(そしてなぜ...酒を持っている...)
そしてそのタイミングでアナウンスが再度ありました。さすがに電車の中で飲酒はダメです。怒られるのでしょうか...。伝えられたのは、以下の4つです。
・車両の点検を行います(積雪の影響で電線が異常状態にあるため)
・時間がかなりかかります(もちろん再開に向けて全力を尽くします)
・身延線後続車両はございません
・楽な姿勢でお待ちください
私はもう憤りを忘れ、「ありがてえええええ」と感謝し、靴を脱ぎ、横になります。(他にも横になられている方も複数いました)
「駅員さんが近くのコンビニにお弁当を買いに行こうとしている」
そんな情報が錯綜しました。近くのコンビニまで2.5km、外は吹雪、とても正気の沙汰ではありません。
「だから駅員さんに、やめたほうがいいですよって説得したんだよ」
宴会に参加している誰かが、そんな話をしていました。
自分はというと、宴会を横目にしながら「もうなんか、なるようになるな」という気しかせず、電車シート特有の温かみにうとうとし始めていました。私自身はそのタイミングで車内の写真を撮影し、当時唯一触っていたSNSアカウントであるfacebook、Twitter用に写真を撮影していきます。SNSへの投稿、情報チェックも始めます。交通網がいかに麻痺しているかという情報を目にし、私自身、すっかりここでもうここで一泊する気満々です。
一泊して、明日の朝にでも帰ればいい
とにかく帰ることができればそれでいいと。そして、そこから1時間ほどで、また再度アナウンスがありました。
「電源部分に異常があります、このままだと停電します」
その時点でようやく自分の中の考えが確信に至りました。
私は、帰宅難民だと。
数年前の3.11では帰宅できない方が大勢TVの向こう側に映し出されていました。当時TVのなかで起こっていた現象が、今まさに自分の目の前で起こっています。しかも難民は、自分自身です。しかし、3.11の時とは状況が違います。
外は吹雪。
最寄りのコンビニまで2.5km。
ほぼ無人駅。
大きな道路(車道)はない。
悶々と、不安が高まります。もちろん、「その状況=ゲームオーバー(死)」だとは思いません。しかし、20歳なりに、最悪の事態は考えます。
軽度の凍傷ぐらいは....正直覚悟しないといけないかもしれない
脳裏には、山野井夫婦のヒマラヤの高峰ギャチュンカン下山道中の雪崩に巻き込まれた際のエピソードがよぎります。以下は実際にその下山道中のエピソードです。
下山中、お互いの身体をロープで繋いだまま雪崩に遭遇します。妻は滑落し中吊り状態。夫は雪崩のダメージで目が見えなくなります。夫は、そんな絶対絶命の状況で、冷静に「生きる」ことを選択します。切れ切れの意識を奮い立たせて、夫は妻の救出に向かいました。妻が生きていることを確認し、後は下山あるのみ。ロープを固定するくさびを、氷壁に打ち込む必要がありますが、目が見えません。手でさぐっても、零下30度に対応するための手袋ではわずかな隙間を知ることができません。夫は、手袋を捨て、凍傷を覚悟で素手で氷壁を調べます。失っても良い指は、どれか?まずは左手の小指。ようやく探りあてた1箇所にくさびを打ち込みます。ここまで、1時間。すでに、左手の小指は重度の凍傷となり、感覚がなくなります。続いて右手の小指。そして次のくさびを打ち込みます。こうして、自分の指を犠牲にしながら少しづつ、少しづつ、氷壁を降りていきます。こうして、ようやく氷河に降り立ったとき、2人の体力は限界を超えていました。「生きてベースキャンプに戻れるかもわからない」そして、最後の力を振り絞り、奇跡的に自力でベースキャンプへ戻ります。予定より1週間後のことでした。この壮絶な下山の過程で、泰史さんは手足の指を10本、妙子さんは18本失うことになってしまいました。
もちろん、マイナスな事ばかり考えていては、パニックになります。次に、自分の所持品、服装を確認します。ここで、感謝したことが4つあります。
1.満腹状態である事(ランチ焼肉効果で満腹でした)
2.チョコがあるという事(映画「ハリーポッターとアズカバンの囚人」の影響で栄養価が高く、疲労回復の作用があり、吸収効率も良いことを知っていました、あの時ほどチョコに感謝した事はありません)
3.厚着、ブーツであること(実は家を出る際に祖父に声をかけられ「どこに行くのか」と聞かれ「身延線で静岡に行くんだよ」といったところ、「身延(山)は標高が高いから、山に登るわけだから、しっかりと厚着をして、しっかりとした靴でいきなさい」と注意を受けていたため、UNIQLOのウインドブレイカーではなく厚手のコートに着替え、スニーカーではなく、ドクターマーチンのブーツに履き替えていたのです。)
4.モバイルバッテリーを所有していた事(当時はあまり持ち歩いている人は少なかった....なぜか奇跡的に持っていました)
数十分後、駅員の方が何か宴会中のグループに話をしています。僕も耳をかたむけます。
「次の下部温泉駅まで向かいます!そこで降りて、下部ホテルに向かってください。ロビーとお風呂を提供してくださいます!」
僕の凍傷覚悟が、杞憂に終わった瞬間でした。
宿泊編
下部温泉は、山の中にポツンとある温泉街です。かつては砂金の採掘源であり、武田軍の重要な資金源として重要な役割をになった街でもありました。自分自身も部活(「砂金掘り」という奇特な競技)で度々訪れた事があり、幸い吹雪の中でも土地勘があるためホテルの場所もだいたい把握しています。
「助かった」
と一気に緊張感が緩みました。
電車は停車します。
物々しい雰囲気が漂います。そこからホテルに向かいます。ホテルの方が即駆け寄り、「お食事はすぐにはお出しできないのですが」と言いつつ、金銭を一切要求されずに、ロビーと入浴施設、希望者には毛布が提供されました。天国か!!ここは!!
ちなみにこのタイミングで父からも連絡があり「そっちいこうか?」とのこと。ホテルで一泊することになった旨を伝え、今日は家に帰ってほしいと伝えました。ちなみにこの時点で山梨の交通網はほぼ麻痺していたため、この判断は英断だったと思っています。
また...ここまで特に誰とも私は交流せずに着ましたが、ここである社会人の方とおしゃべりし、名刺をいただき、仲良くなります。
ここでは、Hさんとさせていただきます。
Hさんは東京や静岡、山梨に支社がある会社の方で、社員数名と今回帰宅難民になってしまっていました。他にも1人、20代前半の女性と合わせて全員で7名ほどでしょうか。他の方も混じり、挨拶も終わると話し合いが始まります。
「で、どうする?」
漠然としたテーマではありますが、明日以降の動きを話し合いが始まりました。ちなみにHさんは先ほど駅員さんがコンビニに行くのを止めた方であり、車内でもいろいろな方と話をされ、場を和ませてくださっていた張本人でもありました。
Hさん曰く、
・実は数キロ先まで行けば支社の基地拠点がある(車、食料がある)
・半日歩けばつくはずなのでそこから車で甲府支社まで向かう(道中、私の家の方面にも向かうとのこと)
・明日は天気も快晴の予定
・身延線は深刻な電線トラブルの影響で、現状ほぼ1週間は動く目処が立っていない
とのこと。そして、いわば強制帰宅を試みようと、打ち明けてくださいました。自分もその場で「自分も帰りたいです」と伝え意気投合し、自分も持っていたチョコをその場にいた人たちに分け合い、その晩はホテルのロビーで床につきました。
...
早朝5時ごろでしょうか。
「朝風呂を帰宅困難者の方にも解放してくれる」
との情報が広がります。
疲れ切った体にはありがたいことこの上ないです。早速Hさんや、その他の社員の方と湯船に浸かります。それから30分ほどでしょうか。後から来た人たちから「朝食のバイキングも無償で提供してくれる」との情報を共有してもらいます。
「え、流石にお金払わないといけないんじゃ」
と自分は口走りますが、Hさん曰く、
「おそらくだけど、JRが立て替えるんだと思うよ」
とのこと、実際に僕は詳しくないのですが、そのような際はJRが費用を保証することになっている他、その宿泊施設に対して特権的にJRの中吊り広告などを枠を格安で提供することがあるらしいのです。(真偽は不明です)
「なるほど」と当時20歳だった自分は考えさせられました。朝風呂にもゆったり浸かったのち、バイキングをHさんはじめ、女性の方も交えて他の方々たちと食べます。
「まさに同じ釜の飯を食べた仲ですね、我々は」
などと僕が言うとHさんが笑いながら、「それはよくある例えだけど、多分これ本当に釜で焚いたご飯だから、まさにその通りなんだよ」などと小話をしたり、僕が大学3年生になるタイミングで東京の別の大学に編入する話、この1ヶ月の間で静岡と山梨を何度も往復していた話をし、Hさんも「●●●(僕の大学の地名)はうちの本社がめちゃくちゃ近くにあるんだよ」と美味しいランチのお店の情報などを共有してくださった他、ほかの社員の方も、実は僕の高校(母校)と娘さんの高校が同じだったりと、思わぬ発見や共通点が多数あり、とても話が盛り上がったことを今でも覚えています。
「ホテルに残る」ことを選択した方は、多かったように思います。
今考えれば甲府市内方面がどのような状況になっているのか、詳細がわからない状況にあったため、ホテルに留まり続けるという選択も決して間違っていなかったのではないかと思います。
親交を深めつつ朝食を済ませ、「そろそろ出ましょう」と準備を進めホテルを7名で後にします。
強制帰宅編
「なんて綺麗なんだ」と、思わず息を飲みました。空気が冷たく、吸い込むと口元にまで寒さが染み込みます。目に映る山々は雪化粧し、そこには見慣れない雪道と、氷河が出来上がっていました。
「写真をいっぱい撮っておこう」と思い、iPhoneを手に取りますが、この時点で実はあまりバッテリーがないということに気がつきます。昨晩モバイルバッテリーで充電したものの、モバイルバッテリー自体すでに浪費したため、あまり充電できていなかったのです。「流石に怖いな」といざとなった時にGSP機能が使えなくなっては困るので、最悪の事態を想定し、電源をOFFに、ポケットの中でいざと言う時に備えて待機させます。
そこから5kmほどでしょうか。雪道なので時速1kmほどで、7名で車道の真ん中を移動します。
道中で車は乗り捨てられており、「先に行くとクレーンが"く"の字に横転していて、それが道を塞いでしまったから車が動けなくなってしまったんだ」と情報を先行者から共有されます。
とはいえ、そこまで歩いていくことができれば、そこからは先は車が使えます。しかし、その前に事務所があれば、ゲームオーバーです。少しだけ緊張感、不安感が走ります。「大丈夫かな...」と内心心配でしたが、その現場も無事通過することができ、支社に到着します。その時点で昼過ぎだったでしょうか、少し小腹が減り始めていたのを記憶しています。
道中2件もコンビニを見かけました。いずれもライトがついており、「こんな時も営業するのか」と驚きましたが、全てライトがついているだけで営業はしていませんでした。(見ていると何人かコンビニを見つけ走っていく人がいましたが、どの店舗もライトがついているだけで閉鎖されていて、入り口で打ちのめされていました)
支社には食料、車も完備されていました、車は四駆です。それに7名が乗ります。
1時間ほどの準備時間を経て、車に食料なども詰め込み走らせます。
交通状況は正直わからない部分も大きかったのですが、7名全員の「帰りたい」という意欲が、車を市内に向かわせます。途中何度か雪にタイヤを取られてしまい、"後ろから人力で押し出す"という、雪が降らない地域に住んでいたら、人生で3度あれば多い方では?というような貴重な経験を、その日だけで10回以上経験します。しかも四駆で。
そしてついに、夕方を過ぎた頃でしょうか。見慣れた景色になります。そう、甲府市内に着いたのです。普段であれば1時間あれば着くであろう道のりを、男6人で所々押しながら、5時間かけて到着したのです。
僕は甲府市内のはずれ(家の近く)で降ろしてもらい、そこから歩いて、普段であれば15分もかからない道のりを、ゆっくりと雪をかき分け、1時間近くかけて帰宅します。
市内はほぼ除雪が間に合っておらず、雪を自力で掻き分けながらも「もう流石に、この距離では遭難しないだろう」と残していたiPhoneのバッテリーを使いながら写真を撮影しました。
家が見えた瞬間に、
どっと1日の疲れが溢れ出し、
膝がブルブルと震え始めたのを強く覚えています。
...
帰宅後、まず母に驚かれます。
「え...どうやって帰ってきたの?」
そう声をかけられますが、何も語る元気がありません。自分の力で帰ってきたと言えばそうですが、人に助けてもらい、なんとか命からがら帰ってくることができた旨を率直に伝えます。
父からは、「よく帰ってきたね」と声をかけられます。あの日ライブに行った帰りに父は「下部温泉なら1時間で迎えに行けるから行くよ」と乗り気でしたが、あのままきていたら車道は機能していなかったので、車を乗り捨てざるを得なかったに違いありません。
「君に迎えに来ないでいいよと言われて家に帰ったけど、あれは正解だったよ」
と伝えられます。実はその日の夜、車の中で身動きが取れなくなった方が、エンジンをかけたまま暖房をつけて車内で寝てしまい、排気口が雪で塞がった関係でガスが車内で充満し、その時点で既にお1人お亡くなりになっていたのです。
自分の判断も、父の行動も、今でも正しかったと思っています。
祖父には「だから言った通り厚着で行って正解だっただろう、山は馬鹿にしないほうがいい」と声をかけられました。間違いありません。祖父が服装を提案してくれなければ、もしかしたら本当に凍傷になっていたかもしれません。もしかしたら1週間、下部温泉に缶詰だったかもしれません。改めて感謝です。
翌朝以降、積雪への対処を進めます。スコップを使って雪をかき分け、日当たりの良い空き地に雪を集めます。単純作業の最中、色々なことが頭の中で反芻します。
自宅の庭を雪かきし、まずは通路を作ります。そして、色々なことを考えます。
今回の帰宅難民体験のせいでブーツはダメになってしまい(イギリス製の貴重な、オールドのドクターマーチンだったのに)新しい靴を買い換える必要性があるといったこと、改めてモバイルバッテリーの重要性と大容量モデルの必要性については認識を改めるべきだということ、山を経由して移動する場合、最悪降ろされても大丈夫な服装でいることが、如何に理想的かということについて、考えは多岐に渡りました。
その一方で、自分自身が今回体験した経験は、他の人の感心が高い経験かもしれない、文章などで追体験したいような貴重な体験だったのではないかと思い、昼は雪かき、夜は執筆と、時間を効率的に使ってfacebookに経緯を投稿しておきました(それがあるから今回詳細に思い出しながら、noteを書くことができました)。
最後に
ちなみにその後の話を、少しだけ書いておこうと思います。
上記Hさんとはその後も何度かメールでやりとりをさせていただきましたが、いま現在交流はありません。(もしこのnoteが多少反応があったら、当時いただいた名刺にメールしてみようと思います)
私自身はその後大学に編入し、卒業後は広告代理店に入社、今は主にWebマーケティング、広告運用業務を生業としています。noteは趣味で書いており、下記のようなマーケティングやら、Web広告関連のnoteを定期的に投稿したりしています。
また来月、自分はロビーと毛布、お風呂と朝食を無償提供してくださった下部ホテルさんに、一客として宿泊する予定です。
いわゆる、一宿一飯の恩義というやつです。
この手の部類の話で本当に一宿一飯なことは稀だと思いますが、世渡りの常、このような体験や経験をさせてくださった宿をこれ以上放置するのはいかがなものかと思い、予約するに至った次第です。
山梨もその後、しっかり復興しています。
皆さんもぜひ、山梨にお越しの際はぜひ下部ホテルに(せめてものPR)
また「この時の雪って実際どんな感じだったっけ?よく覚えてないな」と思った方はこちら。
私自身、主にTwitterをやっています。今回のような長文を書くことは稀ですが、今後も不定期でこのような雑記を書いていければと考えています。興味があればぜひフォローしてみてください。
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