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ツインレイの到達点と自我には納得しようのないノンデュアリティさ

ノンデュアリティさを表現する時に、「無条件の愛」とそれが同じと書く場合があります。
今すでに無条件ですべてが許されているから、ノンデュアリティさは無条件の愛 とそのままを伝えています。

ただ、ここで私たちが生きているのは二元の現実です。
二元というのは、二つに分かれていることです。
暑いと寒い、高いと低い、希望と絶望・・等の相反する二つのものがある世界で私たちは生きているということです。

その良し悪しではなく、私たちが生まれて成長する過程の中で、それをごく自然に教えられ身についてきたものです。
ただ私たちはその世界に生きている という現実だけがここにあります。

でもただそれだけです。

ノンデュアリティさに居ましょう  ではありません。
もうすでにそれしかないからです。
そこにたどり着くとかではありません。
それはもうここだからです。

よくツインレイのことを書きますが、それはツインレイ概念が「無条件の愛」をテーマにしていることが理由にあげられます。

この二元の世界に、一般的に愛の象徴とされる男女の愛において、無条件の愛は存在しません。
にも関わらず、無条件の愛とツインレイ概念が表現することにとても違和感を感じています。

「ないものを求める苦しみ」
ツインレイ概念から与えられるものはそれだからです。
とても高尚で素晴らしい愛だと定義しているのは、「私」でしかありません。

「私」というのは、誰もが感覚としてある「私」という存在のことを指します。「私」がこの体の中にあるような感覚、「私」が何かを得るような感覚。
「私」を強く意識するのは苦しい時、悲しい時です。
嬉しい時、楽しい時には「私」は存在していません。
それと一体化している「私」などは感覚としてありません。

私は心地よい状態のときには存在しないのです。
心地よさと一体だからです。
そしてそこには時間の感覚もないと思います。
楽しい時間があっという間に過ぎるのはそのためです。
「それ(ノンデュアリティさ)」と一体化している時に「私」はいません。
寝ている時も「私」はいません。
寝ている時に「時間」は存在しません。

その感覚を常に手にしていたいのが「私」です。
「私」がある時には決して手に入らないそれです。


ツインレイもそれと同じです。
「私」が強く無条件の愛らしきそれを求めている時、それは決して手に入りません。
それを自然に忘れ、私の手を離れている時、それは現れたりします。

ノンデュアリティさとツインレイは似ているのですが、確実に違います。
誰もが求める「私の不在=違和感のなさ」は、いつもここにあります。
違和感のない愛は既に感じているそれそのものです。
苦しみを感じていたら、苦しい、ただそれだけです。
苦しみから逃れようとする、良いことを得ようとすることが苦しみです。二元の現実ではありえない無条件の愛を手に入れようとすることは、手に入らないことを経験するだけです。

親子の愛ですら、どこか条件つきです。
根底にある無条件の愛ではあるのですが、そのことはすっかり忘れてしまいます。二元の現実では何かしらの条件がつきます。

起きていることに何の逆らいようもなく、起こる感覚や感情に何の逆らうことも止めることも出来ないそれ。
それしかありません。
それをこの体が機能を通じて、体験として保存しているかのように思えますが、実際はどこにも保存はできず、いつも常にただ起きては通り過ぎていくだけです。

この命を持った体の機能があり、それにより様々なことを感じ、考え、記憶し想像することが起こる。

本当のところ、誰かが名前をつけた結果として固有となるけれど、この世界は本来無であることは明らかです。
時間という「概念」がなければ、明るくなったり暗くなったりするのは惑星の動きの結果でしかありません。
名前がそれぞれになければ、何も指し示しようがありません。
様々な形をした命を持つ生命体やモノ。
そこに弱肉強食はあるだろうけれど、自然の摂理の働きでもあります。

世界の中に小さな私が存在しているのではなく、本当はマンホールの中を見渡しているような感じ、万華鏡でも見るかのように私たちは目を通して世界を見ています。その世界は脳が創り出したそれぞれのオリジナルです。
目の前にあるものに、本来は何も意味がありません。
意味付けしているのは「私」です。
私によって意味づけされた世界が目の前に繰り広げられています。
そこには私の見たまま、感じたままが起こります。
当たり前です。「私」が世界をのぞいているのですから。。。

「誰かを手に入れる」とか「無条件の愛を探す」こと。
それは本来ないものを手にしようとしていることになるので、絶対にできません。
手に入れた、これが真実の愛 と感じるのであれば、脳内の感覚としてそう感じている瞬間はあるかもしれないけれど、幻想にすぎません・・

ツインレイで統合するというのは、現実的には自己統合なのだけれど、それを含んでいるそれは統合など必要ないことなのです。
どうしても自我がある限り、それは理解もできないしどうにかしなければならないのです。
どこまでいっても、自我とは真逆です。


自我の崩壊が起こった時、それが明らかになります。
ガラガラと崩れた自我の先には、何もありません。
ただそこにあるのは完全なる無条件の愛です。

自我の完全降伏というノンデュアリティさだけれど、
いつもつねに誰もがそうです。
でも自我はそれを認められないのです。
絶望の先に素晴らしいものがあるけれど、絶望には触れたくもない自我によってそれは見えなくなります。

愛(求めるもの)が手に入らないなんて自我は認められないけれど、既に無条件の愛しかないのです。







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