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わんぱく娘は変わらない

小学校3年生。自然が豊かな場所から都会的な地区にある小学校に転校してきた私は自己紹介の最後にこう言った。

好きなことは木登りです! よろしくお願いします。

一瞬教室が静まり返ったのにキョトンとしたのはいい思い出。その後しばらくはサルと呼ばれた。おかしい、向こうでは普通だったのにな。

もうその自己紹介から十数年たって、そんなことがいえる機会も、実際にやれる機会もほとんどなくなってしまったけれど、あの自己紹介の一言は私の本質なんじゃないかなと思う。

それはなんと今日ちょっとしたことで木に登る機会があったから。

手をかけられる枝を選び、どこに重心を置くか決め、腕や脚だけでなく体感なども使いながらリズムよく上がっていく。

細い枝でもタイミングと力のかけ方を間違えなけば致命傷になることはない。足を置く前にはおいて本当に大丈夫か試し置きを何度もして確認する。ちょっとでもフィットしなければ踏み出すことはしない。

幼いころはもっと軽快だった。

ずっしりと立つ樹に登らせてもらい、自分の力だけでは見ることができない世界を見せてもらう。上に上に行けば、もっと違う世界、広がる世界を見せてもらえる。その世界を堪能し、癒され、時間が来たらするすると迷いなく下りてゆく。

また同じ景色が見たいと同じ気にお世話になることもあれば、次はあの登りやすそうな木!といって他の木にお世話になることもあった。

下にいた両親は心配していたけれど、その木の上から見える景色に心奪われできる限り長く、終いにはおいてかれるときもあったが、満足するまでその景色を見続けていた。

驚くことに、幼いころのわんぱくな気質は、今の私にも通じていた。

一番先端からの、そこから見える景色が見たくて恐れることなく突っ込んでいく。面白い景色を見るまでの努力は努力とも思わず楽しみ、そこからの景色を見て心をときめかせる。そして満足したら迷うことなく離脱し次の目的地へまた走ってく。

そうして見つけた本当に居心地の良い場所に私は帰ってくる。幼いころからの感覚から、そこは変わっていなかったのだ。


幼い頃の自分なんてもう覚えていないかもしれない。

今の自分になるまでに起きたこと、経験した大変な思い、変えるしかなかった自分の考え。変わってきたことの方が多いことだってあるだろう。

それでも私たちが物事を判断するとき、もしくは私たちが惹かれる何かがあったとき、それは幼いころから繋がっているものがあるのではないだろうか。

何か自分が困ったときや、どうしたらいいか分からなくなったとき、何が大切か分からなくなったときは、幼い頃の私たちを思い出してみよう。

きっと小さな私たちは今の私たちが忘れている大切な何かを、教えてくれるから。


おーしまい!

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