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サエコ

 待合室を覗くと午前の診療患者がまだ数名残っていた。午後の予約患者の姿もちらほらと見えている。思ったよりも診察は進んでいないようだった。
「いつもより、おしていますね」
 順番が表示されているパソコンに目をやると、休憩に入った時より数名しか進んでいなかった。待合室の患者は疲れ切った表情をしている。
「それが、救急でやっかいな患者が運び込まれたみたいよ」
「え?」
 聞き返したと同時に、看護師長が駆けこんできた。
「本条さん、ちょっと手を貸して」
 わけがわからず返事をすると、同僚の看護師が言った。
「気を付けて。結構、派手に暴れてるみたいよ」
 私は、頷く余裕もなく看護師長に連れられ、救急外来へと急いだ。

「あ、こっちに来て。早く」
 手を挙げた若い医師が手招きをする。ストレッチャーに乗せられた患者は何度も手足をバタつかせている。看護師がひるんだうちに腕から点滴が外れ、床に落ちる音が響いた。
「くそっ」
 医師が舌打ちをした。
「なんでこんな厄介な患者、受け入れたんだよ」
「外来の入口で倒れていたんです。そのままにしておくわけには…」
 辺りを見渡すと、数名の医師が治療方針について話し合っているようだ。
「本条さん」
「はい」
看護師長の声で、私はストレッチャーに近づいた。

「うぅ、うぅ」
 とても悲しい声だった。うめき声とも違う、どこか儚げな声に、私は耳を塞ぎたい気持ちになった。
「本条さん、あのね」
 看護師長の声に顔を上げる。その瞬間、腕に生温かい感触が触れた。目を落とすと、患者の力強い手が腕を掴んでいた。
「……ユウコ、ユウコ」
 起き上がろうとする患者の全身の力が、右腕にのしかかる。咄嗟に手を振りほどこうとするが、力が強く振りほどくことが出来ない。必死に悶えるその顔に、私は言葉を失った。短い髪は汗で湿り、頬はやせ細っている。しかし、大きな二重瞼をしたその目は、あきらかに見覚えのある顔だった。

「……ナナ?」
 目の前に寝かされているのは花口ナナだ。
「やはり、知っているのね」
 看護師長が言う。私はゆっくりと頷いた。
「高校の、同級生です」
と、突然、ナナの呼吸が荒くなり、うめき声を上げた。「ちょっと、どいて」
 若い医師に押しのけられる形で私は、後ろによろめいた。最後の力を振り絞ったのだろう、よろめいた私の腕に今までにない力が加わった。鷲掴みにされた腕は、小刻みに震えている。
「サエコ、サエコを見た」
「!?」
 最後の言葉だった。ナナはひどく怯えた表情をして、それから静かに目を閉じた。腕にはナナに抑えつけられた指の痕がくっきりと残っている。

「あの患者、何度もあなたの名前を呼んでいたそうよ。多分、あなたに会いにここへ」
 看護師長の言葉に、背筋が凍る。自分に何を言いに来たと言うのか。久しぶりの再会が喜ばしいものではないことを私は知っていた。死亡確認をされるナナを振り切るように、救急外来を後にした。

 サエコを見たなんて、そんなはずはない。サエコは、私とナナで、あの日、土の中に埋めたはずなのだから。

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